新宮熊野神社
所在地 | 福島県喜多方市慶徳町新宮字熊野2258 | 由緒については説明書きより引用「平安中期の永承六年(1051)、奧州平定を命じられた鎮守府将軍源頼義とその子義家は、紀州熊野三所に武運を祈願し、前九年の役(1051〜62)に勝利したのを機に河沼郡熊野堂村(現河東町)に熊野三社を勧請したが、後三年の役(1083〜1087)の兵乱が始まった応徳二年(1085)に八幡太郎義家によって熊野堂村からこの地に移された。当初は本村に新宮、岩沢村に本宮、宇津野村に那智殿が別個に祀られたが、後にこの地に三社が合祀された。「新宮雑葉記」によれば、盛時には三百余の末社霊堂に多くの宗徒、百余人の神職を置き、国家の安全を祈願し、奧州の熊野と称され崇敬されたという。文治五年(1189)、佐原義連によって寺社領悉く没収されたが、建久三年(1192)、源頼朝より社供二百町を賜り、かつ文殊菩薩の形像を安置せられた。また、当地の地頭新宮氏によって以前の栄耀をみるに至ったが、打ち続く戦乱と慶長一六年(1611)の大地震で多くの建物は倒壊した。同一九年に再建されたが昔の面影は失われ、ただ拝殿(長床)の遺構のみが往事の壮大さを伝えている。当社には国指定重要文化財二点、県指定重要文化財七点があり、歴史の古さを物語っている。」 長床についても説明書きより引用「長床は熊野神社の拝殿で、九間×四間、茅葺寄棟造りの建物です。直径一尺五寸(四五.四cm)の円柱四十四本が五列に並び、各柱の間は十尺(三〇三cm)の等間隔で全部吹抜けです。外廻り一間通りが化粧屋根裏の庇の間として区切るように並べてあり、中央桁行七間、梁間二間のところは天井を張った身舎となっています。各柱の上には、平三斗の組物がのり、中備には間斗束を用いています。前身建物は、各所に残る部材の様式手法から考えて鎌倉時代初期のものと推定されます。慶長十六年(1611)の大地震で倒壊し、同十九年に再建されましたが旧材を再使用したため、柱間寸法が縮み身舎九尺(二七二cm)庇八尺(二四八cm)となり、また組物や天井等を廃したり、軒はせがい造りに改められたりしていました。そこで昭和四十六年から四十九年にかけて解体修理が行われた時、調査の結果旧規を知る箇所が数多く判明したので、できる限り当初の姿に復元しました。中央の系統をひく鎌倉時代の遺構として、東北地方では他に類をみないものとなりました。」。 上記長床が有名なようだが、文化財も木造文殊菩薩騎獅像(県重要文化財)、銅鐘(県重要文化財)、銅鉢(国重要文化財)など、素晴らしい文化財があります。是非、宝物殿に寄りましょう。しかし。熊野神社自体そういう傾向はあるが、神社とは言いつつ、仏教的要素がかなり強いものがある。 なお、参拝にあたっては、拝観料を徴収されますので、事務所で300円を支払いましょう。 |
祭神 | 家都御子神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神 | |
社格 | 県社 | |
創建 | 天喜3年(1055年) | |
その他 | 地図 |
鳥居 | 社号標 |
説明書きについては上記で引用したとおりです。 | |
名称 熊野神社の森 | 参道 |
名称不明 | ブランコです。 |
拝観料について | 事務所。御守りを売っていた人は宮司ではなさそうだった。 |
お神籤 | 他の季節でも風情があることでしょう。 |
「長床復原之碑」でいいのかな。 | 長床が近づいてきました。 |
手水舎 | 長床の説明書きについても上記で引用したとおり。 |
大イチョウ。秋の写真を見ると大変風情があります。 | イチョウの説明書き |
狛犬 | 狛犬 |
イチョウの根元 | 長床です。 |
長床です。 | 振り返る。 |
上ってもいいんだよね? | 確かに長い床である。 |
熊野三社が見えます。冬は近づけません。 | 斜めから。 |
銅鐘です。 | |
しだれ桜か何か? | 文殊堂 |
「文」はともかくこれで「殊」と読むのだろうか。 | 斜めから。 |
三笠宮崇仁親王殿下御手植之樅 | |
宝物殿は道路を挟んで向かいにあります。 | 絵馬 |
本殿がある山 | 木造文殊菩薩騎獅像です。禁止の看板などは見つかりませんでしたが、撮影しても良かったのでしょうか? |
駐車場。中で休めます。 | 喜多方市の地図。これを見る限り那智宮は跡とあるが、熊野神社本宮はまだあるのように見える。上記説明では合祀したとあるが、どうなんでしょう。 |
神社のある山を遠くから。 | 雪国ですねぇ。 |