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早吸日女神社


所在地 大分県大分市大字佐賀関3329  由緒については現地看板より引用「当社は、人皇初代神武天皇御東遷の途次、海女、黒砂 真砂の二神が速吸の瀬戸の海底から大蛸が守護してきた神剣を取り上げて天皇に奉献し、その神剣を御神体として天皇御自ら古宮の地に奉斎し建国の大請願をたてられたのが創祀である。
 大宝元年(701年)、神慮によって現在の地に遷座、延長5年(927年)、朝廷、延喜式を制定するに当り式内社に列せられ、爾来、諸災消除、厄除開運の神として皇室を始め諸大名の崇敬厚く、遠近の諸人も伊勢神宮になぞえて関大神宮又はお関様(関権現)とも称し、伊勢神宮に参詣することを参宮、当社に参詣することを半参宮ととなえ、多くの信仰をあつめて今日に及ぶ。
 慶長5年(1600年)、兵火により社殿、宝物一切を焼失したが慶長7年、加藤清正侯当地を領するに当り社殿を再建、後の藩主細川侯の再建修築に係る建造物多数現存、昭和48年社殿修築、社務所、参集殿新築工事竣工により、神社の荘厳さを更に加える。
 平成16年3月、本殿、総門、及び当社社家(小野家住宅)の三件、大分県指定有形文化財となる。」。
 読みについては、現地看板を見ると、「はやすいひめ」と読むようだ。
 参拝したのは2015年12月12日になります。
祭神 八十枉津日神・大直日神・底筒男神・中筒男神・表筒男神・大地海原諸神
社格等 式内社、県社
創建 皇暦紀元前7年(西暦紀元前667年)
その他 地図リンク

一の鳥居 神幸殿。鳥居前の駐車場敷地にあります。
由緒については上記で引用したとおり  早吸日女神社にまつわる話は古の時代からの謂れがあり、神武天皇の東遷の折に、古宮に祠を建て、祖先の剣をご神体として奉納し、早吸神として長い間、村人達の心の拠り所となっていたことや、その後、701年に現在の地に社が建てられ、漁を生業とする漁師と共にあったといわれています。
 1600年の「関が原の合戦」の折には、この地で東軍の竹田藩と西軍の臼杵藩の激しい戦いがあり、ここら一帯は焼き払われ、早吸日女神社は全焼しました。その2年後の1602年には、佐賀関が肥後藩の飛び地であったことから加藤清正公が、同じ地に神社を再建しました。
 江戸時代には、「関の権現さま」と慕われ、「罪や穢れ」を払い落とす神として、また「海上交通の安全」を願う神としてお参りされています。また神社は、本殿、拝殿、神楽殿、総門等から成り、奥行きが深く建てられており、県や市の有形文化財に指定されています。
上記掲載一の鳥居について。 忠魂碑 
総門  総門の説明書き。1697年に建立されたとのこと。
  参道
  何の神様かは分かりません。
   
厳島社  
参集殿 二の鳥居 
逆光が眩い。 何故か手水舎が二つある。
神明社  
僅かに残った紅葉 大亀碑 
亀です。神社と何の関係があるかは不明。 本物の亀はいるのだろうか?
  護国神社
本殿 天満社 
シャコ貝? 本殿
奥にまだあります。 稲荷社 
   
大分市の名木くすのき  
  小川が流れています。
再び手水舎へ。 やっと二の鳥居をくぐる。拝殿かと思いきや伊邪那伎社。 
拝殿は奥です。  左から歳神社、天然社、若御子社
  御供殿
左が生土社、右が相殿社 木本社。御祭神は椎根津彦神という。 
炊井(かしぎい)という。御供を炊ぐ井戸又の名を姿見の井戸と称し心悪しき者は姿映らずと云伝う。  再び伊邪那伎社
肥後藩主と延岡藩主との文字が見える。  日本鉱業株式会社佐賀関精錬所の寄付は1千万円とある。
1万円寄付の碑 ようやく拝殿近くへ。天気は良かったが如何せん逆光のため綺麗に撮りにくい。
神楽殿。1604年に肥後藩主加藤清正が建立し1650年に肥後藩主細川綱利が改修したという。 天狗の面?
  藤ですかね。
拝殿  柑橘系の何か。カボスではさすがになさそう。 
狛犬 kurokunとあるが何でしょう? 
振り返る。  絵馬掛け。蛸の絵が見える。 
   
灯籠  立派ですね。 
拝殿から本殿までが長い。  
本殿  水源でしょうか? 
  裏側
真後ろから。 後方の森 
ここにも小川が。  空洞がある。 
回り込む。 記念樹
また空洞 斜めから。 
神社敷地から一旦出た隣 早吸日女神社社家(小野家住宅)といい大分県指定有形文化財だという。
佐賀関を遥々一周していたら辿り着きました。 黒ケ浜だという。日本の渚百選のようです。 
砂浜が黒いからそう名付けられたのでしょう。 注連縄らしきものが見える。
ネコ 凄い道です。 
近づく。 やっぱ凄い道です。 
鳥居が見える。  関サバ・関アジで有名な佐賀関。確かに海流は早いように見受けられる。
姉妹岩の由来。「遠い昔、神武天皇御一行の船が、この地の沖合を通ろうとしたところ、急に船が進まなくなりました。天皇御自ら海底を御覧になると、かつて伊弉諾の命イザナギノミコトが海に落としたといわれる御神剣を、大ダコが守護しているのがわかりました。そこで天皇は海女の黒砂(いさご)、真砂(まさご)姉妹に御神剣を大ダコから受け取るように命じました。まず姉の黒砂が潜りましたが、ここは潮の流れが速いうえ、体力の限界を超えた深さまで潜ったので、御神剣を大ダコから受け取ったまま息絶えました。次に真砂が潜り、御神剣を姉から取り上げ、天皇にお渡ししましたが、息絶えてしまいました。その夜、天皇の夢の中に姉妹が現れ、「ここを航海する船は、私達がお護りいたします」と告げました。翌朝、激しい雷雨で大岩が裂け、二つの岩となりました。それが姉妹岩で海の安全を護っているといわれています。また、御神剣は佐賀関町の早吸日女神社の御神体となっています。」 この二つの岩が姉妹岩ということでしょうか?
こっちも裂けて分かれていると言える。