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水納島史

以下の文章は主に瀬底史・角川日本地名大辞典沖縄編等に依拠して、管理人なりに水納島の詳細を紹介します。上述2誌・琉球国由来記・琉球國旧記は直接文献を当たっていますが、それ以外の文献は孫引きという形になります。


1 水納島とは
 その形から別名クロワッサンアイランドと呼ばれ、周囲を珊瑚礁とイノーに囲まれた美しい島。かつては、島全体がメンナノ御嶽と呼ばれ聖域として扱われたが、現在は北部の主要リゾートであり、夏にもなるとたくさんの観光客が訪れる島である。
 明治・大正時代までは「水無島」とも書かれることがあったように、地名の由来も井泉がないことからくる(南島風土記)。なお、宮古地方多良間村にも水納島という同じ名前の島がある。
 字は本部町瀬底に属する。面積は0.54km2・周囲4.6km・最高標高11.8mの隆起珊瑚礁からなる小島。人口は49人、学校・警察はなく、小中学校が1つある。小中学校は平成18年の新聞記事によると小学生3名・中学生1名しかいなく、統廃合の対象となっている。

2 島の歴史
 水納島は、一般的には明治時代になるまで無人島であったと伝えられるが、近年の調査の結果水納島貝塚が発見され、1500〜1000年前に人が住んでいたことが判明したという。もっとも、明治23年に開墾が始まった当初は無人島であったし、郷村帳に「水納島無人居」等と記載されているように少なくとも18世紀頃の水納島は無人島であった。琉球国由来記には「メンナノ御嶽」の所属が瀬底村になっているし、琉球國旧記にも「面那嶽」が瀬底村にあると記載されていることから、水納村なるものがなく無人島であることが推察され、瀬底村の所属であったことが分かる。瀬底村の所属になった理由は、伝承によると、伊江島と瀬底島の住民が舟漕ぎ競争をした結果、勝った瀬底島の所属になったという。
 島の開拓は明治23年に瀬底島から製糖組6組の組合員が試しに島へ渡ってサツマイモを植えたのが始まりである。それは実入りがよく大変美味だったようで水納ウム(イモ)と呼ばれ人気を博した。その後、瀬底島からの移住が続き明治末期には17世帯を数えるようになった。人口は最大で戦後一時期までは、戸数27戸・人口150余名をピークに昭和40年以降は2桁に留まっている。平成21年4月末現在は49人である。

3 島の産業
 瀬底誌(平成7年)によると島の主産業は農業主体で、人参・大根・サヤインゲン・メロン等を作っている。昭和50年代以降は畜産にもシフトしている。島の周囲は豊かな海産資源に囲まれているが漁業専業の者はいない。昭和50年代中頃からレジャーブームに乗って水納島を訪れる観光客が増え、民宿も建つようになった。水納海運の定期就航に合わせて観光客も更に増え、平成5年には年間3万人が訪れるようになった。現在はリゾートアイランドとしての性格が強く、夏になるとたくさんの観光客が賑わいを見せる。島内には民宿は2軒あり、水納島でのダイビングを売りにしている業者も本部町を中心にたくさん見受けられる。

4 島の祭祀・拝所
 琉球国由来記によると、メンナノ御嶽が本部間切瀬底村にあると書かれている。毎年11月の海神折目の時に仙香・花米・神酒・水・魚を供えたとある。現在行われている祭祀は、開拓当初に創建された御殿で旧暦の5月5日・9月9日に井泉御願がある。瀬底島からは今でもシヌグ等の祭祀の時に集落南部にあるサンケーモー(参詣毛)から水納島に遥拝する。
 地図を見る限り、現在島の南東には井戸・拝所がある。