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城久

 
 城久は島の南西部に位置し、北東は島中・滝川、南は羽里・山田、北西は池治・赤連に接する字になります。 
 集落の聖地は八幡神社(鹿児島神社)、保食神社がある。前者は別ページにて紹介。後者は存在に気付きませんでした。
 グスクは大字名が城久とあるようにそのまんまグスク名である。鹿児島県神社庁のサイトによると、字名はノロの祭事を行う石垣で囲った地に由来するという。由来といい高台という立地といいグスクらしい性質を備えていると言える。
 城久における重要なものは城久遺跡群がある。城久遺跡群とは、喜界島の中央部にある城久集落を取り囲むようにしてある8遺跡の総称であり、9世紀から15世紀までの遺跡であります。遺跡群からは長崎産の滑石製石鍋、徳之島伊仙町のカムィヤキ壷、中国産の越州窯系青磁・華南系白磁・広東系白磁・古銭(北宋銭)などが出土しています。これは太宰府の遺物とよく似ており、城久遺跡群は太宰府の出先機関ではないかと言われています。
 最近の議論は更に進んでいるようで、では、何故喜界島にこのような遺跡群があるかというと、喜界島・奄美大島南方の島嶼世界の情報収集及び交易管理が目的である言われている。そして、交易品として重要視されていたのは琉球弧で産出するヤコウガイであるという。平泉の中尊寺金色堂にある螺鈿細工のように平安時代はヤコウガイが大量消費された時代でありました。
 したがって、奄美大島が見渡せて、防御に優れた地形である喜界島が太宰府による出先機関として選ばれ、更に急峻な地形に囲まれた城久が選ばれたのではないかという。
 なお、ヤコウガイとは熱帯域に生息する貝であるが、北限ギリギリの方が美しい貝殻になるとさる。したがって、生息域北限に近い奄美大島や喜界島が重要視されたのだろう(もちろん、琉球弧の中で大和に近いという点もあるが)。
 以上の説明は主に高梨修著「ものが語る歴史10 ヤコウガイの考古学」や福寛美著「喜界島・鬼の海域-キカイガシマ考-」に依拠します。


     
集落内。バス停が見える。 どこもそうですが、閑静な住宅街。   
     
公園 再び住宅街   
     
八幡神社前の通り 神社脇にある公民館  「ハンジャー お祭り広場」とある。沖縄でいうアシビナーでしょうか。
     
広場です。わざと平坦にしたんだろうか。 小山があります。  麓に石碑がある。読み取りにくいが支那事変という文字が見える。慰霊碑でしょうか。 
     
ここもヒメタツナミソウ自生地だそうです。他には大朝戸や滝川で見ました。  頂上部には岩があり、鎖が見える。何か聖地なんでしょうか? 八幡神社崖下
     
一見聖地のようだ。 「水の広場 通称ドカン」とある。水道が出来るまで集落の水源地として利用されてたという。  水源まで繋がるのか。
     
岩場   ここも水源地のようだ。飲めるかは謎。 
     
トゥヌムトゥ公園とある。殿の下ぐらいの意味でしょうか?でも、下だとシチャとかいうから、殿の本かしら? 聖地っぽいような気のせいのような。 見渡しがいいのです。 
     
確か、上記とは別の小山。 上には・・・水準点?測量用の何かっぽい。  確か、小山の麓だったはず・・・記憶が曖昧。
     
明治百年と刻んでいるように見えるが。 広場。日が落ちかけているので管理人の陰が映っています。 崖上のガジュマル