南西諸島グスクリスト
1 グスクの数え方(参考文献)
(1)総論
南西諸島にあるグスクの数を調べました。数え方は、「角川日本地名大辞典沖縄県」に載っている仲松弥秀作成表及び沖縄県教育委員会発行の「ぐすく」3部冊をベースに数えています。この4冊に載っているグスクと、各市町村史、各市町村の教育委員会が発行した雑誌及びグスク関係誌等に載っているグスク名を拾いました。
「辞典」に載っているグスクは無条件で数え、「ぐすく」に載っているグスクは、「沖縄本島及び周辺離島」は無条件で全部数えましたが、「宮古諸島」「八重山諸島」はグスク及び相当時代の遺跡も載っているため、雑誌内に載っているグスク図で紹介されている遺跡のみを基本的にグスクとして数えています。市町村史、教育委員会発行誌及び各種雑誌については、グスク名がついているものであれば基本的には数えました。「おもろそうし」等の琉球王国時代の文献ではグスク名が見えるが、少なくとも戦後にその場所を確認した人がいないものは除外しました。また、明らかに戦後になってからグスク名を付けたものも除外しています。
(2)奄美のグスク
奄美のグスクについては、「角川日本地名大辞典鹿児島県」、永吉毅著作「沖永良部島 地名考 付 奄美諸島の小字名」及び鹿児島短期大学付属南日本文化研究所「奄美学術調査記念論文集」所収の「奄美におけるグスク調査の報告 三木靖」からグスク地名と思われるものを拾いました。後者の文献でグスクとして紹介されているものは無条件に拾いました。
他には、各市町村誌、「奄美大島名瀬市 グスク詳細分布調査報告書」、「グスク文化を考える」掲載の奄美大島グスク分布地名表及び「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」等も参考にしています。徳之島については、「トレジャーアイランド@徳之島」というホームページでグスクと紹介しているものも付け加えました。グスクの可能性があるが、現段階では判断できないものは、グスクとしては数えないが、参考までに載せています。
(3)トカラのグスク
トカラのグスクについては、「南日本の民族文化誌3 トカラ列島」及び「日本の神社 神社と聖地 南西諸島」で紹介されているグスクを数えました。
(4)薩南諸島のグスク
薩南諸島のグスクについては、「奄美・吐喝喇の伝統文化」で紹介されているグスク地名を数えました。
2 グスクとは
(1)緒論
グスク名を拾う上では、そもそもグスクとは何なのかが重要となります。沖縄紹介本やインターネットを見る限り、未だにグスクとは城であるという説明が大変多い状況にあります。これは、琉球王府がグスクに対して城という当て字をしたことがそもそもの原因となります。そのため、グスクは城であるという解釈に引きずられ、近代になって研究者が城跡に対して、グスクと名付けてしまったことが以後のグスク論争及び世間へのイメージに混乱を来すはめになりました。
では、グスクとは何か。管理人としては、グスクと呼ばれるものがグスクであると考えます。答えになっていないと感じるかも知れませんが、現在グスクと呼ばれる場所を何百と調べて、実際に訪れた感じでは、内容的な面からグスクについて定義することは不可能だというのが管理人の現在の答えです。それでも、本来は一義的な意味であったのでは考えるのが普通です。では、本来の意味は何か。管理人は、仲松弥秀が主張するように、元来のグスクは墓であると考えます。理由は、グスクと呼ばれる場所には人骨(神骨ともいう)に纏わる話が多く、周囲に墓が多いことがあります。そして、そのような伝承がある場所ほど立地してからの歴史が古いように感じられることがあります。これについては、いつか詳述できたらなと思います。興味を持った方は「神と村」を読んでみることをお勧めします。
次に、グスク地名はどこまで含まれるか。グスク・グシク・スク・シク・シュク・ゴスコ名がつくものはグスクとして数えることにしました。いつの時代に呼ばれていたかは基本的に問いません。今は呼ばれてなくても、グスクと呼ぶ人が少なくても、グスクと呼ばれていたことがあれば、グスクと呼ぶ人がいれば、それはグスクとなります(ただし、上述のように戦後になってから呼ばれているものは除外します。)。
なお、一般的にグスクと呼ばれているものに備わっている特徴は、集落近くにある・高台にある・石積みがある・城跡である・集落跡である・拝所がある・先祖や按司の墓跡であることなどが挙げられます。
(2)各地方のグスク
@奄美地方
奄美地方は、本来グスク名称を伴っていないのに、恐らく20世紀以降になってから城(しろ)にグスク名を付けたものが多いため、グスクとは何かを考える上で大変混乱を来していると言えます。この原因は、上述したように、グスクは城であるという認識が強かったため、城跡を見つけ次第グスクと名付けてしまったことにあります。この問題点は、「ものが語る歴史10ヤコウガイの考古学 高梨修」でも指摘されています。
奄美地方のグスクを考える上で、更に難しいのは、沖縄であればグスクと呼ばれる場所には何かしらの遺構があり、いわゆるグスクらしい性質を備えていることが多いのに対し、奄美のグスクについては、遺構がないことが多く、また、いわゆるグスクらしさを感じさせない単なる地名でしかない場合が多いことにあります。かと言って、沖縄のように城跡に対しても、グスク名称が付いている場合もあり、性質からは全くグスクの定義付けが出来ない難しさがあります。
グスクについて、管理人は、仲松弥秀が「神と村」で指摘しているように、奄美であっても、元来は墓の意味が強いように思われます。その後、多様なグスクの概念が沖縄から輸入されたのではないかと管理人は密かに考えています。したがって、城(しろ)をグスクと呼んでいるのは沖縄の影響ではないかと思っています。
A宮古地方
宮古地方は、辞典の表は仲松弥秀作成なので信頼に足るものだと思います。実地調査の上でスク(宮古・八重山ではグが抜けてスクと言う)と実際に呼ばれているものを載せていると思いますが、「ぐすく」の宮古諸島編によると本来グスク名称がついた遺跡は宮古には1つしかないとのことです。○○城と呼ばれているものは当時からの名称ではないでしょう。以上のように宮古のグスクを拾うのは難しいのものがあります。
数え方は、「辞典」に載っているグスクは無条件で数えました。「ぐすく」でグスク名称は付いているものは数えますが、性質がグスクであるとして紹介されているに過ぎないものはグスクからは除外し、参考までに掲載することにしました。
B八重山地方
八重山地方のグスクは、宮古地方とほぼ同じですが、八重山ではシュクと呼ぶものが多いのと、グシクと呼ぶものは単なる石垣を指すものであるという違いがあります。スク・シュク名はグスクとして数えましたが、宮古と同じくグスクの性質があるとして「ぐすく」で扱っているものは当該サイトでは除外することにしました。
Cトカラ地方
トカラについては、上述の本で紹介されているグスクを数えました。なお、「南日本の民族文化誌3 トカラ列島」では、かつてのグスク跡として中之島にあるガジュマルで囲まれた地帯が写真で紹介されています。
両者とも作者は下野敏見ですが、彼によると琉球王朝時代にトカラまで勢力が及んだときに付いた名前ではないかとのこと。いずれも拝所としての機能がありそうですが、グスク元来の意味でつけた名前なのかは不明です。
3 字名・地名としてのグスク
南西諸島には、金城・山城・宮城・新城・城田・城など大字・小字としてグスク名が至るところにあります。その字に遺構としてのグスクがあれば、字自体はグスクとして数えず、遺構と合わせて一つのグスクとして数えることにしました。字名としてのグスクはあるが、遺構としてのグスクがない場合も、グスクとして数えることにしました。奄美については、圧倒的にこのようなパターンが多い。逆に、字名に城があっても、人名由来の場合は基本的に除外しています。字名ではないが、地名としてグスク名がある場合も同様です。
沖縄本当及び周辺離島におけるグスク、先島におけるスク・シュク、奄美におけるグスコ・ゴスコという細かな違いは方言ということで問題なく数えます。奄美におけるウスク(ウシュク)は下記補足のように問題はあるが、一先ず数えています。
4 補足
(1)グスクが複数ある場合
グスクには、内部に更にグスクがある場合や、グスクが隣接している場合があります。この場合、グスク内部にあるグスクは独立して数えないことにしました。首里グスク内にあるクンダグスク・真玉森グスクや、根謝銘グスク内の中グスク・小グスクなどです。グスクが隣接していて主従関係のようになっている場合も、主たるグスクだけ数えることにしました。謝花上グスクのすぐ南にあるメーグスクなどです。いずれも名前ははっきり出てくるのに独立して叙述されていないので、数えないものとしました。もっとも、謝花上グスクとメーグスクはいずれも山の名前なので別に扱ってもいいかも知れません。
逆に、同じ丘陵上にあるのに成立年代が違うなど性質が異なるものは別グスクとして数えました。たとえば、二股グスクです。
字名としてのグスクは、字ごとに数えます。従って、南山城と西山城という字があったら二つと数えます。たとえ、その字が隣接していても別として数えます。
グスク地名に遺構としてのグスクがある場合は、概ね一つとして数えています。
(2)底(スク・ソコ)名について
字名に底(スク・ソコ・奄美ではシク)とあるのは、取捨選択が難しい。何故なら、グスクとは違う語源と思われるのも多数あるからです。特に宮古地方には底とつく小字があまりにも多く、ほとんど違う語源ではないかと思われます。地名の語源にそこまで明るいわけではありませんが、日本語の意味そのままの底か谷地形を表す迫と同じではないかという感じもします(奄美では日本語そのままの底を意味するらしい。)。グスクと同じ語源としても、敢えて底という漢字を使用する必要があるのかという疑問もあります。したがって、将来的に増減すると思われます(現に過去の更新ではこのパターンがよく増減する原因となっています)。
スク名については、概ねグスク名だと思いますが、一部にマキヨ(古代の血縁集団)を意味していると思われるものもあるので、それは除外しています。例として、名護市数久田などがあります。
なお、須久名山というのが南城市にありますが、これについてはスク名であり、割と有名な山だと思われるのですが、どの文献でも何故かグスクとして扱っていないので今の所は除外しています。
(3)ウスク(ウシク)名について
奄美には、ウスク田やウスコントといった地名が多い。これらの地名について、三木靖や徳富重成はグスク名として分類しつつ、徳富重成は雀榕(アコウ)を意味するウスクが生えている場所を意味する可能性を指摘しています。同様の指摘は「南島の地名第4集」における新垣源勇もしています。
では、ウスク名が全部アコウ由来かと言うと、一筋縄ではいかなそうです。言語学的には単語の冒頭の子音が抜けることがあるらしいし(現に幾つかある)、ウスク地名に人骨や聖地といったグスクの性格が伴っている場合もあるからです。また、アコウの木を与論島から徳之島まではウスクと呼ぶが、奄美大島ではホーギ、アホギと呼ぶのが一般的という話もあります。
いずれにせよ、現地を訪れて見るのが一番だと思われます。もっとも、本来はアコウ由来の地名でも、現在もアコウの木があるとは限りません。
(4)地形名としてのグスク名について
沖縄から奄美にかけて広く分布している城原・城田・城前田・城又(俣・亦)という小字については、厳密に考えると、グスク周辺の地形を指すものであり、本来はグスクと呼ばれる場所があるようにも思われます(実際にある場合も少なくはない。)。これについては、異論があり得そうですが、グスクを内容面から一義的に定義できない以上、これらの地名もグスク地名として数えます。
もっとも、グスクの語源を下記で説明するように「囲った場所」だとすると、例えば城田は囲われた場所にある田と理解もできます。現にそのような立地にある城田もある(住用地区川内の城田など。しかし、南西諸島に広く存在する城田の地名の中でそのような性質の城田は多くないというのが、管理人の現在のところの感想です。)。そうすると、グスク周辺の地形ではなく、その地名がある場所がグスクそのものだということになります。
(5)「白」がつく地名について
奄美に多い「白」がつく字名については、「しろ」などと読むことから、グスク→城→白と変化した可能性があると穿った見方が出来なくはありません(「奄美大島名瀬市グスク詳細分布調査報告書」でも、グスク関連地名である可能性を含ませています。)。しかし、徳富重成の著書を読む限り、尻と同義(下方という意味)で白が使われていることが多いようです。たとえば、白井とあれば「しり」と読むようです。白代田だと「しゅーだ」と読み、下方という意味のようです。「南島の地名第2集」によると、龍郷や節田にある白間のように潮入湿地を意味するシューマの場合もあるようです。宇宿の城間(シルマ)や瀬留・喜瀬の白里(シュリ)もそうであるらしい。また、徳之島にある白井神社の説明版によると、白井は「シリ」と読み、坂を意味する「シラ」が語源の可能性があるそうです。
参考までに奄美にある「白」がつく字名を拾いますと、白・白木・白瀬・白間・白平・白野・白真・白田・白又・白久・白畑・白畠・白川・白原・白嶺・白三・白前田・白配田・白森当・白畑キ・白畑ケ・白二川・白ン川・白当畑・白間当・白前河・白間田・白真田 ・前白峯・白間前・白間屋敷・白間当リ・白河中道・白真下田・白畑ケ原・白代川原・上野白代田などがあります。全部が尻や潮入湿地を意味するのかは分かりませんが、一つぐらいグスク由来の地名があるのではないかと思っています。
(6)海中地形におけるグスク名
一般的にグスク名は陸地にあることが前提と思われていますが、瀬や漁場などの海中にもグスク名が付いている場合があります。管理人が主張するように墓を意味するのならば、海中の地形などにグスク名がつくことはあり得ません。しかし、砦状地形にグスク名を付けることは、名付ける人がグスクの本来の意味を知らない場合は多いにあり得ることです。
当サイトでは屋久島町のクスクバエしか現在は掲載していませんが、うるま市の与勝海域には幾つかのグスク名があることが確認できます。今後、海中地形や漁場名などを調べて、掲載できたらと考えています。
(7)グスクの語源
グスクの語源については、未だに決着が付いていない問題であり、管理人が説得力のある答えを出せる状況にはありません。ただ、一般論として、方言は近畿地方から遠いほど変化すること、奄美方言・沖縄方言(宮古・八重山含む)の変化を見る限り、奄美方言の方が語源の発音に近いこと(例としては「清らか」が奄美では「きゅら」で沖縄では「ちゅら」と発音する)から奄美でのグスク名が参考になると考えています。そこで、奄美には奄美大島や徳之島にゴスク・ゴスコと発音するグスクが少なからずあることが参考になると考えます。それがグスクとなったのは、琉球方言では母音の「あいうえお」が「あいういう」と変化することから、ゴスク(コ)がグスクとなったのではないかと考えられます。
沖縄のグスク名についても、「南島の地名 第4集」所収の伊波和正執筆の「文政2年(1819)の琉球の地名『琉球船漂着始末』」によると、グスクの読みは、世名城(ヨナコウスコ)、與那城(ヨナコスコ)、新城(アラゴスコ)、中城(ナカコスク)、池宮城(イチミヤコスコ)、山城(ヤマゴスコ)、大城(ヲホゴスコ)、高宮城(タカミヤゴスコ)、玉城(タマコスク)、豊見城(トヨミコスク)、湖城(コグスク)、波名城(ハナゴスク)と、パターンとしてはゴスコ・ゴスク・コスコ・コスクの4通りであり、グスクという読みはありません(もっとも、歌謡集である「おもろそうし」ではグスクと呼ばれており、その点は検討を要します。)。
そうすると、グスクの語源は現在奄美で呼ばれていることが多いように、ゴスク(コ)と考えるのが正しいのではと思われます。
更に音韻変化を考える上で、正確にはどう発音していたのかを考えると、沖縄本島北部辺りの発音で顕著だそうですが、古老ほどグスクではなくグシクと発音していると言われているし、上記伊波によると、グスクにおける「ス」の発音(原本では「読み」としているが、便宜上言い換える)は「スィ」であり、したがって、「城」の発音は「グスィク」だということから、かつての発音ではゴシィク(コ)、ゴシュク(コ)ないしこれらに近い発音で言っていたのではないかとも思われます。したがって、ゴスク・グシク・グスクと変化してもおかしくはないのではないかと思います。
では、ゴスク(コ)の本来の意味はと言われると、御宿・御塞・石磯城やら朝鮮語由来まで様々あります(詳細な分類は(8)で紹介します。)。まず、単語を分解すると、「ゴ」+「スク(コ)」なのか、「ゴス」+「ク(コ)」なのかを考える必要がありますが、沖縄本島以外では古老ほど「スク」と言いますし、諸文献では「スク」だけでもグスクとして扱っていますので、前者が正しいでしょう。次に、上述したように、少なくとも先頭の単語は「グ」ではなく、「ゴ」として検討する必要があります。
その上で、2014年10月時点での管理人が考えている語源は、「ゴ」は久手堅憲夫が言うように碁と同義で「囲む」の意だと考えています。「スク(コ)」については、「シキ(磯城)」説、「スク」説、「ソコ(底)」説のいずれも広義では「区画・場所」を意味するという共通点があり(と管理人は諸文献を見る限り思います。いずれも同源なのかもしれません。)、結果、「ゴスク(コ)」は、「囲った場所」という意味ではないかと考えています。「シキ(磯城)」説によると、斎場にしたりするための一区画という意味もあるので、それだとグスクは墓であるという管理人の説と完全に合致します(ただし、管理人は「スク(コ)」の発音が正しいと考えているので、若干の齟齬は残ります。)。
まだまだ検討していきたいと思います。
(8)グスクの語源についての諸説(主として當眞嗣一による分類に依拠し、若干の付け足しをしています。)
@チャンバレン→御宿(ゴシク)
A金沢庄三郎→グは敬称で、スクは国語のシキに同じで朝鮮語の城を意味する。
B伊波普猷→塞の字を当てた古代国語のソコに御の字を冠したもの。
C鳥越憲三郎→シキ(磯城)の系統(管理人注→シキとは建物を建てたり、斎場にしたりするための一区画の意)。
D沖原善忠・外間守善→グはいしらご・ましらごの「ご」で石を意味し、「しけ」「しき」は聖所の意味を持つ。したがって、グスクは単に「聖所」「拝所」の意味もある。
E多和田真淳→グスクは「大きい場所、大きい敷地」の意味を持ち、拝所、墓地、按司屋敷、城など大きい敷地であればどちらでもよい。
F友寄英一郎→石囲いの高い処。
G平田嗣全→グスクのスクは「底」と同様、上ニモ、下ニモ、横ニモ、至り極まる処と解釈できる。だから、グスクとは事物の拠り所となること、人民の集落にも、死者の至りつく所にも、また人間の祈りの対象にもかく名付けたものであろう。
H久手堅憲夫→グスクのグはゴーマーヰー(車座)のゴの変化で、囲むの義をもつことで、囲碁の碁と同義。グスクのスクは敷に対応し、敷は一定の区画を指す「占ムル所」を意味する。始原的にはグスクとは「囲われた祖先の葬地」とするのが妥当のようである。
5 グスク(地名)はどこまであるのか
グスク(地名)については、現段階ではトカラ以南にしかないという認識が一般のように思われます。しかし、奄美で複数の研究者などから、実は薩南諸島(屋久島や種子島)以北にもあるという話を聞いたことがあります。種子島にも探せば複数あるという人もいれば、鹿児島市にだってあるという人もいます。屋久島にはクスク・クスクバエという地形名があります。グスクの語源は何かを考えたら、上述のように諸説あるので、由来によっては南西諸島以外に残っていることも十分あり得るのでしょう。
管理人としては、トカラ以南のグスク名の探し方と同様に薩南諸島以北でもグスクと読めそうな漢字や城とつく地名を探してみようと考えています。現段階で島嶼に限って探してみたところ、三島村ではらしき名前は発見できませんでしたが(平家城という字なら硫黄島にある)、屋久島・種子島・口永良部島・甑島であれば城地名がそれなりに発見できます。基本的には、城(しろ)を意味するのだろうとは思いますが、中城・中城田・大城・城ノ田・城ノ鼻といったトカラ以南のグスク名にありがちな名前が見受けられます。今後の検討課題にしたいと思います。更に可能だったら、字名だけではなく俗称地名も探せたらなとも思っています。
6 終わりに
各グスクの詳細については、管理人自らが訪れたところはいずれ写真付きで全部詳しく紹介する予定です。また、訪れてない場所も各文献を簡単に引用しつつグスクに興味がある方、訪れてみたい方にも分かりやすく紹介する予定です。
なお、グスクの数えた方は、沖縄の考古学を専門に学んでいるわけではない管理人独自に数えたものですので、あくまで参考程度にお願いします。今後更に増えるかも知れませんし、数え方を変えるかも知れません。管理人としては今まで見たどの文献も大雑把なグスク数しか紹介していなくて気持ちがすっきりしなかったため、南西諸島という広い観点から数えることができてよかったと思います。先人達、集落の人達・各市町村役場・教育委員会、文献豊富な琉球大学・沖縄国際大学・法政大学には感謝です。
グスク数(2017年10月現在) | 沖縄本島及び周辺離島 | 宮古 | 八重山 | 奄美 | トカラ | 薩南諸島 |
792 | 389 | 29 | 39 | 329 | 4 | 2 |
*グスク紹介の順番は「角川日本地名大辞典沖縄県」収録順に従います。したがって、うるま市・八重瀬町・南城市・久米島町・宮古島市は合併前の表記になり、分けて紹介します。
*グスク名は「角川日本地名大辞典沖縄県」収録の仲松弥秀の呼称に従います。
*性質は仲松弥秀分類による。したがって、上記辞典記載以外のグスクは空白とします。奄美地方については、鹿児島県埋蔵文化財情報データベースの分類を掲載します。
*掲載誌は、沖縄については、「ぐすく」とあれば沖縄県教育委員会発行の3分冊の冊子に紹介されている場合を意味します。「辞典」とあれば「角川日本地名大辞典沖縄県」所収の仲松弥秀作成表で紹介されている場合を意味します。
*掲載誌は、奄美については、「論文」とは鹿児島短期大学付属南日本文化研究所「奄美学術調査記念論文集」所収の「奄美におけるグスク調査の報告 三木靖」のことです。「地名考」とあれば永吉毅著作「沖永良部島 地名考 付 奄美諸島の小字名」です。「辞典」とあれば「角川日本地名大辞典鹿児島県」所収の小字一覧からの抜粋になります。グスク名は基本的に「辞典」に合わせています。なお、「辞典」のうち喜界島と瀬戸内町は小字名がほとんど掲載されていません。
*踏破は管理人が訪れたかの有無です。○は実際にグスクの中まで進入した場合。△はグスクの位置を現場確認までしたが何らかの理由で進入できなかった場合。×は未踏の場合。
*各グスクの詳細については個別ページで扱います。
*備考で出てくる「地図」は沖縄県埋蔵文化財センターのサイトで見れる遺跡分布調査情報システム地図のことを指します。
*備考で出てくる「神と村」は仲松弥秀著作の本です。
*備考で出てくる「奄美大島グスク分布地名表」とは「グスク文化を考える」に掲載されている表です。
*備考で出てくる「加計呂麻」とは松尾武実著作「奄美 加計呂麻島のノロ祭祀」です。
*備考で出てくる「請島ノート」「与路島ノート」とは瀬戸内町立図書館・郷土館紀要に所収されている町健次郎の論文です。
*備考で出てくる「名瀬市グスク報告書」とは「奄美大島名瀬市 グスク詳細分布調査報告書」のことです。
*備考で出てくる「雑記集成」とは全て徳富重成の著作になります。
*備考で出てくる「天城町報告書」とは「天城町内文化財悉皆調査報告書」のことです。
グスク名 | 別名 | 所在地 | 性質 | 掲載誌 | 踏破 | 備考 |
国頭村〔グスク数8(踏破数6:確認数1)〕 | ||||||
アマグスク | 辺戸グスク・アマングスク | 辺戸 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ? | 「日本の神社 神社と聖地 南西諸島」によると、義本王の墓と道路を挟んで向かいにある森とのこと。拝所や墓の類はないとのこと。確かに、墓の目の前は森であるが、ここなのかは疑問。より集落側であれば高台な感じになっており、正確な場所は不明。 |
グスク墓 | 奥 | 単独墓 | 「辞典」 | △ | 集落の端の小高い山が墓地になっており、ここになる。 | |
ガヂマングスク | 桃原 | 墓地 | 「辞典」 | ○ | 「神と村」によると、村落背後にある墓が多い丘のこと。なお、集落には金萬神社がある。集落側の麓に拝所があるが、関係あるかは不明。 | |
イチフク森グスク | 辺土名(上島) | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「ぐすく」では未確認グスクとなっている。「琉球国由来記」には辺土名村にイチフク森城嶽とあり、「国頭村史」によると、辺土名のマキョ名は「いちぶくのまく」というらしい。また、上島のアシャギがある場所が「いちぶくまく」であるとの説が紹介されている。 | |
ハンギナグスク | 比地 | 墓地 | 「辞典」 | ○ | 當眞嗣一によると、小玉森御嶽に北側に隣接した丘陵のこと。この文献に詳しい。なお、同文ではパンギナグスクとある。 | |
ヤギナハグスク | 安波 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「ぐすく」では未確認グスクとなっている。「辞典」表記の位置からして集落の北にある御嶽で間違いないと思われる。「琉球国由来記」には安波村にヤギナハモリ城とある。 | |
ウンナグスク | 安波 | 墓地 | 「辞典」 | ○ | ヒラバンタ公園のあるソージ山で間違いないと思われる。 | |
奥間グスク | アマングスク・見里森グスク | 奥間 | 「ぐすく」 | ○ | 御嶽であろう。こちらもアマングスクと呼ぶようだ。ハンギナグスクと同様當眞嗣一の文献に詳しい。 | |
大宜味村(グスク数6:踏破数4:確認数3) | ||||||
上グスク | 根謝銘グスク | 謝名城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 城内に中グスク(御嶽)、小グスク(御嶽)あり。「ぐすく」では小グスクはなく、大城があると書かれている。「辞典」小字一覧表には、小字城原の名前が見えるが、ここであろう。 |
スク森スク嶽 | 田港 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 地元で聞いたところの話では集落後方の山を言うらしい。麓には御嶽があり、遙拝所であるという。 | |
津波グスク | 津波 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 丘状にはなっているが、御嶽らしきものは発見できず。麓に石垣はあるが、近年のものにも見える。 | |
石グスク | 津波 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 私有地なので中には入れません。地元の人の話によると、剥き出しの岩はあるが、特に拝所といったものではないのではとのこと。 | |
喜如嘉グスク | 喜如嘉 | 「ぐすく」 | △ | グスク内への道はないらしい。周辺には御嶽等がある。 | ||
宮城原 | 宮城 | ○ | 大字宮城自体は「マーグスク」「ナーグスク」と呼ばれているようにグスク地名であろう。「辞典」小字一覧表を見ると、小字は宮城原しかないようだ。遺構等は確認できないが、グスク地名と思われるので、グスクとして扱います。 | |||
東村(グスク数1) | ||||||
グスク | グシクダケ | 有銘 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「東村史」で紹介されている。集落から川を挟んで東側、琉球セメントがある小山。今はゴルフ場らしきものになっているが、祠は残されている。 |
名護市〔グスク数27(踏破数11:確認数5)〕 〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
小グスク | 源河宮 | 源河 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「沖縄国頭の村落(下)」の地図を見ると、源河宮の位置にクーグスク・オミヤと表記されているので、このことであろう。「名護市史本編9」でも「クーグスク」と表記されている。 |
大グスク | 源河大グスク | 源河 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「沖縄国頭の村落(下)」では、ウーグシクとある。麓には拝所が幾つかあるが、これらはウーグシクウタキであり、ウーグシク自体はもう少し後方(南方)のようである。 |
グスクのチヂ | 真喜屋グスク(上之御嶽) | 真喜屋 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「名護市史本編9」では真喜屋グスクと紹介されて、グスクのチヂと書かれた文献はないが、恐らく同一であろう。もっとも、チヂは頂上を指すので御嶽のある山の山頂を指す可能性もある。 |
ターグスク | ターグシク山 | 嘉陽 | 不明 | 「辞典」 | △ | 「名護市史本編9」ではターグシク山というのが見受けられる。らしき山はあったが、地元で聞いてもラ峰とは呼ぶが(「沖縄国頭の村落(下)」ではナホーとある)、ターグシク山とは呼ばないとのこと。田に囲まれてはいると言う人はいた。山ではあったが、グスクらしさはない。 |
嘉陽グスク | 上グスク | 嘉陽 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
高山グスク | 瀬嵩 | 単独墓 | 「辞典」 | ○ | 「名護市史本編9」「沖縄国頭の村落(下)」に名前が出てくる。石碑が建っている場所付近がグスクであり、後方(北方)の丘は無関係のようである。 | |
テマスク | 瀬嵩宮? | 瀬嵩 | 不明 | 「辞典」 | ○ | 「辞典」の地図が大雑把であるため分かりにくいが、現在の瀬嵩宮を指しているようにも見える。汀間グスクを略してテマスクと言うのか? |
グスク山 | 瀬嵩 | 不明 | 「辞典」 | △ | 「辞典」で指しているように見える場所(集落南西)には確かに山があるが、「名護市史本編9」で紹介されているグシク山は集落の北方にあるので、2つあるのかどちらかが間違えているのかも知れない。地元で聞いても知っている人は見つからなかった。集落の先祖は北方の山にかつて住んでいたようなので、こちらがグスクかも知れない。山自体に墓等の遺構があるかは不明だったが、探せばあるようにも思われた。 | |
屋我グスク | 屋我 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「名護市史本編9」でも紹介されている。 | |
中グスク | 上グスク・仲尾次グスク | 仲尾次 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によると拝所が2つあり、ウィグスク・ナハ(カ)グスクと言うがどっちがどっちだか不明。「名護市史本編9」によると北にあるのがナハグスク、南にあるのがウィグスクとのこと。仲尾次はかつて中城と呼ばれていたらしい。 |
石城又 | 仲尾次 | × | 「辞典」小字一覧表に名前がある。仲尾次の旧名とも違うし、周辺に石城という名称も聞かないので、グスクとして扱う。かつては、石城というグスクがあったのだろうか。 | |||
大グスク山 | 我部祖河 | 不明 | 「辞典」 | × | 「名護市史本編9」にも大城山(アフグスクヤマ)として小字名と山の名前が載っている。 | |
親川グスク | 羽地グスク | 親川 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「沖縄国頭の村落(下)」によると、親川グスクの南側、かつて羽地間切があった場所にイチグシクヒヌカンがあるそうで、グスク数については検討の余地があるかも。 |
川上グスク | 親グスク | 川上 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 以前(2009年春頃まで)に「地図」で表記していた位置は西側の谷を指していました。場所を間違って表記している文献があるかも知れないので注意を。もっとも、いつの間にか直っていました。 |
前田グスク | 屋部 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | どこがグスクの中心部なのかはいまいち不明であった。 | |
アザヒルマグスク | 屋部(安座昼間原?) | 不明 | 「辞典」 | × | 「辞典」以外に紹介した文献が見当たらない。小字の安座昼間ならある。そこにある小丘か?幾つかあったように思われる。 | |
高ユースク | 宇茂佐 | 墓地 | 「辞典」 | ○ | 「辞典」以外に紹介した文献が見当たらない。宇茂佐霊園内にらしき場所あり。 | |
名護グスク | ナングスク | 名護 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
ウエナングスク | 名護 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「名護市史本編9」にイーナングスクという記載はあるが、名護グスクを指しているように見える。「沖縄国頭の村落(下)」によると、東江・大兼久・城部落発祥の地としてウィーナングスク(上名護城)という名前が見える。ナコー(名幸)という拝所の下にあるらしい。同書の地図を見ると、名護グスクの北方にあるように見える。 | |
上里グスク | 久志グスク | 久志 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 331号線沿いにあったようだ。近くにはカーがある。「名護市史本編9」によると昔からの呼び名ではないらしい。 |
ウチグスク | 屋我 | 「ぐすく」 | △ | 「ぐすく」によると言い伝えがまちまちで呼び名も正確かは不明とのこと。「沖縄県の遺跡分布」ではアマグスクのことをウチグスクと紹介していたようだ。らしき場所は小高い森となってはいる。 | ||
アマグスク | 屋我 | 「ぐすく」 | △ | 「名護市史本編9」ではアマグシクムイという名が見える。入口は不明。 | ||
スクブ | 屋部 | × | 「辞典」小字一覧表に名前が見える、グスク地名の可能性があるので、掲載しておく。グスクとして扱うかは一先ず保留。 | |||
デーグスク | 田井等 | 「ぐすく」 | △ | 「名護市史本編9」も「地図」も同じ丘陵を指しているように見えるが、実際に行ってみたところ何もなさそうであり、逆に北隣の丘陵には御嶽があった。 | ||
タグスク山 | 天仁屋(有津) | △ | 「辞典」にも「ぐすく」にも名は見えない。「名護市史本編9」に山の名前として記載されているのみ。険しい山であり、とても人が住んでいたとか墓があるような場所には思われなかった。入口があるのかは不明。 | |||
池城墓 | 羽地内海 | △ | 「辞典」にも「ぐすく」にも名は見えない。「辞典」の「いけくすく」の項目で勘手納湾上のジャーガル岩礁(ジャルマ島)を地元の人は池城墓と呼ぶと書かれている。「地名を歩く(改訂増補)」によると島から中城掟の銘文がある石棺が発見されているとのこと。「神と村」によると、羽地村の池グスクの人骨がここへ移されたという。 | |||
ヒチグスク | 仲尾 | × | 「沖縄国頭の村落(下)」の仲尾集落の項目で、ヒチグシクとして紹介されている。もっとも、他の文献では独立して叙述されず、親川グスクの北にあるグスクとして紹介されているのみである。なお、「グスク文化を考える」や「辞典」ではかつては池城と呼ばれていた可能性を指摘している。 | |||
メーグシク | 饒平名 | ○ | 「沖縄国頭の村落(下)」で紹介されている。集落の南端の長崎手前の森をメーグシクムイといい、らい病で亡くなった者を葬った場所だという。他の文献では全く紹介されていないが、グスク名なので、一先ずグスクとして扱う。訪れてみると、慰霊碑と鳥居が立っており、昔から墓場として利用されていたのだろうか。 | |||
今帰仁村〔グスク数17(踏破数7:確認数2:所在地判断保留数1)〕 | ||||||
ウプグスク | 仲尾次グスク? | 与那嶺or仲尾次 | 不明 | 「辞典」 | × | 「ぐすく」「今帰仁村史」等の資料では一切紹介されていない。今帰仁城跡博物館長も知らないとのこと。 |
中グスク | スガー御嶽 | 崎山 | 御嶽 | 「辞典」 | △ | 「今帰仁村文化財分布図」にも載っている。「辞典」小字一覧表には与保城原(ユブシクバル)という名前が見えるが、ここだろうか?発音上は同一性が認定できないが、周辺に該当しそうなグスクもないので、一先ず包摂関係にあるとして扱う。 |
池グスク | 平敷 | 単独墓 | 「辞典」 | ○ | 「今帰仁村文化財分布図」にも載っている。 | |
ミムングスク | みものグスク | 今泊 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「今帰仁村史」「ぐすく」によると出城ではないかとのこと。 |
今帰仁グスク | 北山城 | 今泊 | 御嶽・城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小字シュク原というのが今泊にあるが、今帰仁グスクに関係するグスク地名であろうか? |
ウペープグスク | 諸志 | 墓地 | 「辞典」 | × | 「ぐすく」「今帰仁村史」等の資料では一切紹介されていない。らしき小字も見当たらない。諸志植物御嶽の南辺りか? | |
ハナグスク | 仲尾次(与那嶺もか) | 単独墓 | 「辞典」 | △ | 地元の人は「カナグスク」と発音していた。また、出城じゃないかと言っていた。もうグスクへの入口はないとのこと。 | |
グスクのチヂ | 仲宗根 | 不明 | 「辞典」 | ○ | 今帰仁城跡博物館長によると集落北方にある御嶽だとのこと。「辞典」では性格不明とあるが、如何にも御嶽という感じがした。 | |
謝名グスク | 謝名 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 今帰仁城跡博物館長によると集落南方にある御嶽のこと。グスクと呼んでいた時代があったとのこと。 | |
ガヂマルグスク | 仲宗根or玉城 | 不明 | 「辞典」 | × | 詳細は忘れたが、今帰仁城跡博物館長によると存在はするらしい。中央公民館の南方辺りを指しているように見える。 | |
ウチグスク | 玉グスク | 玉城 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 中心部がどこかは分かりにくいが、小丘の中は岩場となっており、拝所らしきものもある。なお、手前にも拝所が複数ある。 |
クンジャドゥグスク | 湧川(墾謝堂?) | 墓地 | 「辞典」 | ? | 今帰仁城跡博物館長によると存在はするらしいが、小字墾謝堂にあるのかは不明。小字墾謝堂の中で一番小高い場所を探索してみたが、グスクかどうかは不明。地元の人に聞いても知らないとのこと。ただし、中腹や周辺には古い墓があった。なお、「辞典」の小字一覧表を見ると、墾謝堂は大字天底になっているが、手持ちの昭文社発行の地図では明らかに湧川にある。どちらかのミスか、所属が移動したのだろうか? | |
鎌城原 | カマグシクバル | 湧川 | × | 「辞典」小字一覧表に名前が見える。周辺に該当するグスク遺構もないので、グスクとして扱う。「南島の地名第6集」によると、湧川の川北側にあるとのこと。 | ||
シイナグスク | 呉我山 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 人為的かは判断つかないが、岩場となっている。 | |
古宇利グスク | ナチジングスク | 古宇利 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ? | グスク跡と思しき畑を撮影しているが、断言はできない。 |
ターラグスク | 今泊 | 「ぐすく」 | △ | グスク内への道はないらしい。 | ||
城原 | 古宇利 | ? | 遠見台がある場所より東側一帯をグスクバルと呼ぶ。詳細は不明であり、「古宇利島の遺跡-村内遺跡発掘調査報告-」を見ても、地名の紹介に留まっている。「南島の地名第6集」を見ると、城北(グスクバル)となっており、北側原という意味で、古宇利島は全域が古宇利グスクであったという説明がされている。グスクの北側という意味だと言いたいのだろうか?いずれにせよ、グスク地名だと思われるので、グスクとして扱う。なお、古宇利島には雨底原という小字があり、後者文献によると、上北という意味だとのこと。 | |||
伊江村〔グスク数1(踏破数1)〕 | ||||||
伊江グスク | 城山・タッチュー | 東江上 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
本部町〔グスク数11(踏破数5:確認数3)〕 | ||||||
備瀬グスク | グスク山 | 備瀬 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 山というには微妙ななだらかな丘である。小字底原(スクバル)はここになるのだろうか? |
具志堅グスク | 富盛(トムイ)グスク | 具志堅 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「本部町史資料編2」によると、地元では単にグスクと呼称するようだ。 |
チヂグスク | 山川 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「本部町史資料編2」「本部町史(巻名失念)」では紹介されていないが、教育委員会発行の「本部町の文化財地図」では名前が出てくる。「地図」と「本部町の文化財地図」では位置が食い違う。「ぐすく」ではこれがグスクと呼称されていることに疑問を呈している。なお、「地図」記載地点周辺は確かに墓地が多い。「神と村」によると、山川村落に近い崖上に頂グスクと呼ばれる墓があるという。 | |
謝花上グスク | ウフグスク(ミタテ森グスク) | 古島(兼増) | 御嶽 | 「辞典」 | △ | 本部町教育委員会で聞いたところ、上グスクのすぐ南にある山をメーグスクと言うらしい。しかし、メーグスクについて紹介している文献は見当たらなかった。謝花の先祖の居住地のようだ。 |
具志川グスク | 具志川森グスク | 渡久地 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「辞典」小字一覧表に与那城原(ヨナグシクバル)という名前が見える。発音上は同一性が認定できないし、具志川グスクは少し陸に入った高台にあるところ、一般的に与那(ヨナ)という地名は海岸地形なので、別グスクの可能性は低くはなさそう。しかし、渡久地周辺にグスクは見当たらないので、一先ず包摂関係にあるとして、一つのグスクとして扱う。 |
健堅グスク | アメラグスク | 健堅 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 現在ゴルフ場になっているので入るのは難しい。 |
マングスク | 並里(万城) | 墓地 | 「辞典」 | △ | 「本部町史(巻名失念)」でも紹介されている。墓地であったかは不明。小字にも万城原という名前がある。 | |
ヂングスク | 陣グスク・鼓グスク | 伊豆見 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、尚巴志軍と北山残兵との決戦場説が紹介されている。「地図」は伊豆見小中学校及び神社の道を挟んだ西隣を指しているが、何もなくグスクらしさも感じなかったので恐らく間違い。仮にグスクだとしても陣グスクではない。小字にも陣城原という名前がある。 |
瀬底グスク | ウチグスク | 瀬底島 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
石城原 | イシグシクバル | 伊野波 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。グスク地名なので、グスクとして扱う。なお、周辺に遺構としてのグスクは聞いたことがない。 | ||
久保底原 | クボスクバル | 先本部 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。恐らく元はクボーグスクバルと言った名前だと思われる。クボーとはビロウのことであり、ビロウがある場所は聖地視されることも多いから、グスクとして扱っても問題ないと思われる。 | ||
宜野座村〔グスク数7(踏破数2:確認数2)〕 | ||||||
グスク | グシク | 松田(潟原) | 不明 | 「辞典」 | × | 「南島の地名第6集」によると、ギンバルガーラ河口右側の森を称していたが、村営住宅建設のために森が崩され、現在はないようだ。久志の若按司が休んだ場所であるという。墓や拝所といったグスク特有の物は発見されてないそうだ。同書所収の地図を見ると、確かに現在の潟原団地を指しているように見える。 |
漢那グスク | グシクヤマ | 漢那 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | グスクへの入口はない。グスクの西側にはグスク原という地名があり、一帯の集落を城原(しろはら)という。「南島の地名第6集」によると、石積みや拝所は見つからないが、近くにはトゥールガマと称される橋状洞穴が発達しているという。 |
マチグスク | 漢那 | 単独墓 | 「辞典」 | △ | 「南島の地名第6集」によると、漢那部落東方丘陵(北病院近く)にあるグスクとなる。「地図」を見ると、漢那テラソ駐車場隣接の丘陵となっている。前者文献によると、漢那ノロの墓が存在する。 | |
ウンナグシク | 漢那 | × | 「南島の地名第6集」によると、軍用地の中にあり、谷間は演習で水が溜まり全容を見ることが出来ないという。同書所収の地図を見ると、かんな湖中腹西側にあるようだ。 | |||
カナグスク | 惣慶 | 墓地 | 「辞典」 | ○ | 「南島の地名第6集」で紹介されている。「沖縄国頭の村落(下)」ではカナグシクティラとして紹介されている。近辺は墓地となっている。前者によると、カナグシクとカニグシクデラは別のようで、墓地がある岩山の一つがカナグシクだそうだ。 | |
大川グスク | 宜野座 | ○ | 「南島の地名第6集」で紹介されている。現地の看板によると、宜野座ヌ古島遺跡を別名大川グシクというらしい。周辺は古い集落や祭祀施設がある。なお、グスクには石積みがあり、これは宜野座村では唯一だとのこと。 | |||
グシク | 宜野座 | × | 「南島の地名第6集」によると、宜野座大川を遡り、現在の高速道路の端の付近の山がグシクと呼ばれているとのこと。遺物や遺構、拝所などは確認されていない。 | |||
金武町〔グスク数4(踏破数3)〕〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
金武グスク | 金武 | 「ぐすく」 | ○ | 今は金武公会堂と六角堂がある。根拠はないが、小字宮城原(ナーグスクバル)はここか? | ||
底盛原 | スクムイバル | 金武 | × | 「辞典」小字一覧表に名前が見える。グスク地名であることが少ない「底」という漢字が使われているが、発音が「スク」なことと「盛」は聖地である「モリ」を意味すると思われるので、グスク地名として扱う。上記金武グスクと宮城原という字名との関係性が不明だが、少なくとも金武グスクは宮城原かこの底盛原のどちらかに包摂されるのではと思われる。 | ||
仕明(セーキ)グスク | 伊芸 | ○ | 「金武町誌」によると今は親王森と呼ばれる場所がかつて仕明グスクと呼ばれて御願所だったが、今は廃止されたとのこと。直接は関係ないが、沖縄市池原にある小字も仕明と書いて「セーキ」と呼んでいる。語源は何なのであろうか? | |||
グスクマタ | 伊芸 | ○ | 「沖縄国頭の村落(下)」によると、テラ屋敷南側にある窪地をグスクマタという。伊芸の祖先が住んでいた跡ではないかと言われているらしい。グスク地名なのでグスクとして扱う。訪れてみると、言われてみれば窪地かなという地形ではあった。 | |||
底森 | 屋嘉 | ○ | 「琉球国由来記」に底森御嶽とあるのが、現在イリ御嶽と呼ばれる御嶽である。底森と書いてスクなのかソコなのかは不明だが、大宜味にある同名の御嶽はスクモリと呼ぶ(なお、グスクとして扱っている)。高台にあり、周囲には村の旧家もあることからグスクとして扱っていいように思うが、グスクとして扱うかはひとまず保留。 | |||
恩納村〔グスク数7(踏破数5:確認数2)〕 | ||||||
安富祖森グスク | 森グスク嶽 | 安富祖 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「恩納村誌」でも紹介されている。「琉球国由来記」の森城嶽のこと。「ぐすく」では何故か未確認グスクと記載されている。 |
グスク | 安富祖 | 不明 | 「辞典」 | △ | 「恩納村誌」で名前だけ紹介されている。山の名前であるが、どの山かは正確に分からず。 | |
恩納グスク | 大田グスク | 恩納(北) | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | グスク内に浜崎御嶽がある。恩納村博物館で聞いたところ、御嶽から少し離れた所に保存状態が良好な石積みが残っているとのこと。 |
ナーグスク | イチグスク | 前兼久 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「辞典」ではナーグスクと書いてあるが、筆者が同じ仲松弥秀である「恩納村史」では何故かイチグスクという名称しか紹介されていない。「ぐすく」でもイチグスクと紹介している。ナーグスクは真栄田にもあるので表記ミスか?「地図」では字恩納にあることになっているが、恩納村博物館で聞いたところ、そこにグスクはないと言ってるし、実際に近辺を探索したが、らしき場所は発見できなかったので間違いであろう。 |
山田グスク | 山田 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小字城原はここであろう。 | |
ガージャグスク | 真栄田 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「恩納村誌」によるとかつての御嶽ではとのこと。「沖縄国頭の村落(下)」ではガナグシクと表記している。 | |
アンナーグスク | ナーグスク | 真栄田(宇加地) | 単独墓 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 「恩納村史」によると石灰岩洞窟のこと。「ぐすく」によると原野一帯のこと。「ぐすく」によると部落東方とあるが、「恩納村史」の地図だと部落南方にある。「沖縄国頭の村落(下)」では宇加地集落南方にコージガマという洞穴があると紹介しているので、このことであろうか? |
うるま市(石川)〔グスク数4(踏破数1)〕 | ||||||
伊波グスク | 美里グスク | 伊波 | 御嶽・豪族の居城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
新城 | アラグスクー | 伊波 | × | 「石川市史」によると、伊波城観光ホテル(現在のココガーデンリゾートオキナワ)一帯を角石原(チヌヒンチヤ)といい、その東側には新城と呼んだ城があったという。伊波グスクとかなり近いが、一先ず別グスクとして扱う。なお、地名の由来は牛の角に似た石が突き出ていたからではないかという。もっとも、現在では工事により折られてないという。 | ||
嵩(チチ)グスク | 東恩納 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「石川市史」によると、戦争で破壊されて跡形もないとのこと。「琉球国由来記」にいう嵩城嶽のこと。「石川市史」によると、上本門森東恩納で一番高い場所にあったというが、上本門森とはどこなのか分からず。当サイト掲示板での投稿、はるゆめさんによると、国道329号線と県道75号線が交わる交差点の一部低くなっている場所がグスクだという。 | |
山城原 | 山城 | × | 「辞典」を見ると、山城原という小字があり、「琉球国由来記」には山城之殿があるので、グスクとして扱う。「石川市史」によると、集落で御嶽(琉球国由来記」にあるオシアゲ嶽)と呼ばれる場所にはトゥンチ(殿)があるというので、これが山城之殿のことであろうか。近くにある風葬墓も含めて御嶽というので、ここら辺が山城原になるのだろうか。 | |||
ウスクマシ | 石川 | × | 「石川市史」で地名として紹介されている(もっとも、「辞典」の小字一覧にはない)。一見、グスク地名とも思われるが、ウスクの大木があったというのでアコウの木由来の地名であろう。参考までに掲載しておく。 | |||
読谷村〔グスク数17(踏破数11:踏破数1)〕 | ||||||
カクレグスク | 瀬名波グスク・カクリグスク | 瀬名波 | 単独墓 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「読谷村史第4巻資料編3」によると按司墓として拝まれているとのこと。 |
金グスク | 瀬名波 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 旧米軍基地であったため破壊を受け原型を留めていない。「読谷村史第4巻資料編3」によると金城門中の墓だとのこと。だからカナグスクなのだろうか? | |
グスク | 宇座グスク | 宇座 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「辞典」の地図と微妙にずれているようにも見えるので、宇座グスクを指しているとは断言できないが、近辺に他にグスクがあるとは聞かないので同一として扱う。宇座イェーキ墓・鍋之甲墓などたくさんの墓がある。なお、大字宇座には城之前原という小字があるが、このグスクのすぐ近くであろう。 |
渡慶次グスク | グシクダキ | 渡慶次 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 読谷村発行の各誌では渡慶次グスクという表現が見当たらないが、同一のものを指すことは間違いないであろう。 |
グスク跡 | マテージグスク | 長浜 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「辞典」の位置は「ぐすく」「読谷村史」等の資料にいうマテージグスクと思われる。「ぐすく」によると古墓があるらしいが詳細は不明とのこと。また、グスクの南30mにはグスクヌウチという地名があるそうだ。 |
座喜味グスク | 読谷山グスク | 座喜味 | 御嶽・城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」では座喜味グスク(読谷山グスク)と記載しているが、未確認グスクリストに読谷山グスクの名が見える。同名のグスクが村内に2つあるのか?なお、大字座喜味には小字城原があるが、ここであろう。 |
高山グスク | ウサチグスク | 座喜味 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によると、国頭方面から移動させられてきた按司の墓だそうだ。 |
ヤクミーグスク | 牧原? | 墓地 | 「辞典」 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では大湾部落東北の深迫原にあると紹介されているが、現在基地内にあるので一般人が行くことはできなさそう。「ぐすく」によると、部落で拝んでいるそうなので、そのときだけ基地内に入れるのだろうか。ヤクミーとは兄という意味で、弟の大湾按司居住地が大グスクとなるそうだ。 | |
大グスク | ヤマグヮー | 大湾牧原 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 大湾按司の墓。「読谷村史第4巻資料編3」によると、大湾按司は今帰仁系統の按司で伊波・山田按司の兄弟という。 |
前グスク | メーダグスク | 大湾 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」「読谷村史」等で紹介されているメーダグスクのことだと思われるが、位置も名称も僅かに異なるので同一とは断言できない。 |
古堅グスク | 古堅? | 墓地 | 「辞典」 | × | 正確な場所は分からなかった。「ぐすく」「読谷村史」等の資料には名前が見当たらない。古堅御嶽はあるが、墓地でもないし訪れた感じではグスクではなさそうであった。 | |
渡具地グスク | トゥマイグスク・クマイグスク | 渡具地 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「辞典」では渡具地だが、字名及びその他文献は渡具知である。「読谷村史第4巻資料3」によると、今帰仁の仲宗根按司がここに身を隠したからクマイグスクという。グスク内には今帰仁按司の墓がある。 |
イットカグスク | 一時グスク | 波平 | 「ぐすく」 | ○ | 一時の仮住まいという意味だが、「ぐすく」によると伝承が2つあり、1つは護佐丸が山田グスクから座喜味グスクへ移る際の居住地、もう1つは波平大主が西の部落から東の部落へ移る際の居住地だという。以前は岩丘であったようだが、今は敷ならされて見る影もない。 | |
トウヤマグスク | 瀬名波&長浜 | 「ぐすく」 | △ | 「ぐすく」と「読谷の遺跡とグシク」という地図では紹介されているが、「辞典」「読谷村史第4巻資料3」「読谷の文化第3集 民族地図資料編」では紹介されていない。「ぐすく」によると無縁仏の遺骨があるという。今は工事で地形が変わりつつある。 | ||
グスクヌウチ | 長浜 | × | 「辞典」「ぐすく」「読谷の遺跡とグシク」では紹介されていないが、「読谷村史第4巻資料3」「読谷の文化第3集 民族地図資料編」では紹介されている。読谷村関係の文献ではトウヤマグスクとグスクヌウチの両方を紹介しているものがなく、必ずどちらかしか紹介されていないので同一グスクかと思ったが、地図を見ると微妙に場所が違うし、「辞典」の長浜の項目を見るとグスクが3つあるようなので別に扱う。読谷村史の地図を見ると、吹出原遺跡を指しているように見える。 | |||
グスクヌチジ | 喜名 | × | 「読谷村史第4巻資料3」「読谷の文化第3集 民族地図資料編」では名前を見るが、何故か「読谷村史第4巻資料3」の地図にはグスクヌチジという名がなく、らしき場所にフェーグスク・ニシグスクという名前がある。グスクヌチジは小字福地原にあるとのことだが、見た感じ上記二つのグスクも福地原にあるように見える。二つ併せてグスクヌチジというのだろうか?ちなみに、チジとは恐らく頂という意味。グスクは基地内にあるので確かめるのは困難。 | |||
ウフグスク | 楚辺 | × | 「読谷村史第4巻資料3」でのみ紹介されている。山内門中の墓だったそうだが、採石で破壊され墓は下方に移動したとのこと。小字高土原にあるようで、確かに採石場となっている。 | |||
嘉手納町〔グスク数4(踏破数2)〕 | ||||||
屋良グスク | 大川グスク | 屋良 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「嘉手納町の遺跡」によれば、勝連城主阿麻和利生誕の地とのこと。「琉球国由来記」には屋良城之嶽という名前が見える。 |
国直グスク | クンノーグスク | 国直(焼廻原) | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 基地内にある。「嘉手納町の遺跡」によると、原型を留めてなく、墓も確認できなかったとのこと。 |
野国グスク | 野国? | 御嶽 | 「辞典」 | × | 基地内にある。「ぐすく」「嘉手納町の遺跡」には名が見えない。「琉球国由来記」には大城ゲライ森が野国村にあるので、これのことであろうか? | |
嘉手納グスク | 嘉手納 | 「ぐすく」 | ○ | 現在は中央公民館が建てられて跡形もない。グスク関係の遺物も採取されていないようだ。 | ||
沖縄市〔グスク数11(踏破数7)〕 | ||||||
グスク | 石城原 | 池原 | 墓地 | 「辞典」 | ○ | 「辞典」と「地図」の位置からして、石城原遺跡がある場所で間違いないであろう。「地図」を見ると、倉敷ダム駐車場手前、市民ふれあい農場の西向側道路脇にある。グスクの西隣は窪地になっており、かつてはグスク周辺は小丘のような形であったのだろうか。「地図」が指し示す範囲は狭いが、石城原は小字なので、本来はもう少し広い範囲だったと思われる。なお、拝所は発見できなかった。整地されたからか、墓はあるように見えない。 |
御宿原 | ウシュクバル | 池原 | × | 「辞典」小字一覧表に名前が見える。グスクではなくシュクという発音だが、奄美ではよく見るグスク名なこともあり、一先ずグスクとして扱う。 | ||
知花グスク | 知花 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によると「おもろそうし」では「ちばなかなぐすく」「ちばないしぐすく」と呼ばれていたとのこと。「琉球国由来記」には石城之殿という名前が見える。「辞典」小字一覧表を見ると、城畑原と城下原という地名が見えるが、恐らく知花グスク内又は隣接する場所にあると思われるので、別グスクとは数えない。 | |
角石グスク | 森根 | 墓地 | 「辞典」 | × | 大字森根に小字角石東原・角石西原があることから、恐らく森根内にあるグスクであろう。現在、森根は嘉手納基地内にあるので、確認するのは難しそう。なお、角石と書いてチヌシと読むようだ。 | |
美里グスク | 美里 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 中部共同病院西側の高台の狭い敷地に小祠があり、美里グシクとの看板が立っている。元々は一帯がグスクと呼ばれていたのであろう。なお、この美里グスクがある場所も含まれるかは分からないが、近くのバス停に小城原という地名が見える。「辞典」小字一覧表を見ると、小城原と下小城原という地名がある。読みは「オグスクバル」である。 | |
越来グスク | 越来 | 御嶽・豪族の居城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
アマグスク | 大里 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「琉球国由来記」にいうアマ城之嶽であろう。「ぐすく」によると以前は小丘陵であったという。 | |
仲宗根グスク | ウチグスク | 仲宗根 | 御嶽 | 辞典」「ぐすく」 | ○ | 「琉球国由来記」にいう内城アマミヤ嶽であろうか?「ぐすく」によると、仲宗根グスクというのは本来の呼称ではない。現地の看板を見ると、仲宗根御願とあり、貝塚もある古くからの遺跡のようだ。 |
森グスク | 山内? | 御嶽 | 「辞典」 | ? | 「辞典」を見ると、山内第二公園辺りに見えるが、周辺には御嶽らしきものは発見できず。山内公民館近くだとお宮があるので、そこであろうか? | |
インジングスク | 八重島 | 「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によるとグスク時代の遺構・遺物は発見できなかったとのこと。 | ||
茶城原 | チャーグシク | 嘉間良 | × | 「辞典」小字一覧表に名前が見える。嘉間良内には遺構としてのグスクはないので、グスク地名として数える。琉球方言の変化上、元はキヤグスクとでも言ったのだろうか? | ||
うるま市(具志川)〔グスク数10(踏破数7:確認数1)〕 | ||||||
安慶名グスク | 大川グスク | 安慶名 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「歴史散歩ぐしかわ」によると、沖縄で現存する唯一の輪郭式の城だとのこと。 |
兼コ段グスク | 兼箇段(カネカダン)グスク | 兼箇段 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「具志川市誌」によると、伊覇按司が具志川地域に進出する際に一応この地に城を造る段取りをしたが、安慶名の方が地の利があったためそちらに移ったとのこと。 |
頂グスク | 土グスク・江州グスク | 宮里 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」「具志川市誌」では江州グスク・えすのつちグスクと表記されているが、頂グスクという表現は見当たらない。しかし、「辞典」の位置から同じグスクを指していると思われる。頂と書い一般的にはチヂと読むが、今回はツチと読むだけなのかも知れない。「琉球国由来記」の土城嶽のことか?小字は城原になる。宮里673〜776番地が小字城原になる。 |
喜屋武グスク | 火打嶺グスク・喜屋武マーブグスク | 仲嶺 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 現在は石垣が残っていなく公園になっている。烽火台があったことから火立毛とも呼ばれる。あまり御嶽らしさは感じなかった。「琉球国由来記」でいうマアブノ嶽となる。 |
上江洲グスク | 太田グスク | 太田 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「具志川市誌」「歴史散歩ぐしかわ」では太田グスクと表記し、上江洲グスクという表記は見当たらない。しかし、「辞典」の位置から同じグスクの可能性あり。太田は以前、上江洲の字であった。「歴史散歩ぐしかわ」によると、「琉球国由来記」の殿(里主所)が現太田グスクとのこと。かつては石を囲って居城としたようだが、現在は周辺を県道と住宅に囲まれ、よくある集落内の拝所という感じである。逆に言うと、あまりグスクらしさは感じない。 |
具志川グスク | 具志川 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 具志川グスクという名前は県内にこれを含めて3つあり、その立地形態が似ており、また三つのグスクにまつわる伝承もある。 | |
クーグスク | 古グスク | 宇堅 | 「ぐすく」 | ○ | 「辞典」「具志川誌」でも紹介されていない。「歴史散歩ぐしかわ」では古城と表記している。安慶名グスクの出城や遠見番ではないかとのこと。 | |
天願グスク | ツチグスク | 天願 | 「ぐすく」 | 「ぐすく」 | △ | 基地内。「ぐすく」を見る限り、天願交差点からすぐ東側キャンプコートニー入口の東脇にある小丘となる。「具志川市誌」では、天願按司が住んでいたと推測している。なお、天願グスクから県道224号線を隔てた北向かいに霊化森というのがあるが、こちらの方は城跡ではあるが、城(しろ)であって城(グスク)ではない。「具志川市誌」でも使い分けがされている。「歴史散歩ぐしかわ」でも、「古城跡にも似た」と記述され、グスクであるとは直接記述していない。以上のように文献上は224号線より南側にある森がグスクとなるが、各種地図では224号線より北側の霊化森を天願城跡と表記しているので、紛らわしいことこの上ない。もっとも、霊化森には、拝所があり、近くには自然洞穴、天願太郎治の墓があるので、如何にもグスクっぽい。 |
安城 | アーグスク | 栄野比 | × | 「辞典」の小字一覧表に名前がある。グスク地名なので、グスクとして扱う。なお、栄野比に遺構としてのグスクは聞いたことがない。栄野比1023〜1213番地が小字安城になり、地図で確認する限り、いずみ病院や沖縄アミークスインターナショナル周辺になるようだ。地図で見る限り、小丘があるように見える。 | ||
城原 | グシクバル | 江洲 | × | 「辞典」の小字一覧表に名前がある。グスク地名なので、グスクとして扱う。なお、江洲に遺構としてのグスクは聞いたことがない。江洲596〜670番地が小字城原になり、地図で確認する限り、メイクマン周辺になるようだ。宮里にある頂グスク(小字城原)と隣接しているように見えるから、併せて一つのグスクとして扱ってもいいように思われるが、大字が異なるので、一先ず別グスクとして扱っておく。 | ||
うるま市(与那城)〔グスク数10(踏破数6:確認数2:所在地判断保留数1)〕 | ||||||
伊計グスク | 伊計島 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 入口は港に面した方にある。トンネル近くの崖の中腹には古い墓が散見される。 | |
ナングスク | イークングスク | 宮城島(上原) | 墓地 | 「辞典」 | ○ | 「辞典」の地誌編与那城の項目で名が見えるイークン(上根)グスクのことか?イークン山はナングスクのすぐ南にある山を指すようだから、同じと思われる。「与那城村史」では紹介されていない。崖伝いに登っていくとある。墓地らしきものは一見なかった。崖の隙間からまだ行けそうな場所があり、不思議な雰囲気を感じた。 |
泊グスク | 宮城島(池味) | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
宮グスク | 宮城島(宮城) | 御嶽 | 「辞典」 | ? | 宮城集落内にあるナーグスク御殿等周辺のことか?あまりグスクらしさは感じなかった。「ぐすく」で未確認グスクとある宮城グスクとはここか?小字宮城(ミヤギ)がある場所だろうか? | |
城原 | グスクバル | 宮城島(桃原) | × | 「辞典」小字一覧表に名前が見える。管理人が把握する限り、桃原に遺構としてのグスクは知らないが、かつてはグスクと呼ばれる場所があったのだろうか。 | ||
イリグスク | 平安座西グスク | 平安座島(平安座) | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 石油基地内。平安座には小字上城原・中城・下城があるので、三つのうち二つがイリグスク・アガリグスクを包摂するか?グスク数については考慮が必要と思われる。 |
アガリグスク | 平安座東グスク | 平安座島(平安座) | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 石油基地内。平安座には小字上城原・中城・下城があるので、三つのうち二つがイリグスク・アガリグスクを包摂するか?グスク数については考慮が必要と思われる。 |
ナーグスク | ヌーグスク? | 与那城 | 不明 | 「辞典」 | ○ | 「辞典」の位置とは若干違うが、周辺に他のグスクがあるとは聞かないので恐らくこれであろう。 |
ナチジングスク | ヤブチグスク | 藪地島 | 「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によると、ナチヂンと呼ばれているが、それが今帰仁と関連あるかは不明であるとのこと。 | |
ギシク | 屋慶名グスク | 饒辺 | ○ | 「与那城村史」で屋慶名海峡展望台周辺高台をギシクと言い、周辺一帯をグシクと言うと書いてある。グスクであり、古い時代に按司が領した所だろうとのこと。墳墓地帯でもあるらしい。詳しい範囲は不明。 | ||
北谷町〔グスク数4(踏破数2)〕 | ||||||
池グスク | イチグスク | 吉原 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | かつては丘陵があったが今は面影がない。「北谷町の遺跡」によると、北谷グスクの出城ではないかとのこと。 |
北谷グスク | 大川グスク | 大村 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 城内は基地内のため許可を得ないと入れない。グスク崖下のみ踏破。「ぐすく」によるとこちらも池グスクと呼ばれるとのこと。小字は城原になる。「琉球国由来記」にある城内安室崎之嶽はこのグスク内であろうか? |
前グスク | 大村? | × | 「辞典」に記載はなく、「ぐすく」でも池グスクの項目で名前が出てくるのみである。「北谷町の遺跡」「ぐすく」によると北谷グスク南側にあるらしいが、その位置は現キャンプフォスター内であり、周辺に丘陵もなく消滅していると思われる。「琉球国由来記」には前城村という名前がある。 | |||
新城下原 | 新城下原第二遺跡 | 北前〜宜野湾市安仁屋 | × | 「北谷町史(巻名失念)」等の文献で新城下原第二遺跡という名前が見える。小字名のようにも思われるが、「辞典」小字一覧では北谷町北前にも宜野湾市安仁屋にも新城という名前は見当たらない。アラグスクシチャバルと読むようにグスク名なので、グスクとして扱う。グスク時代に水田として使用されてたようだ。 | ||
北中城村〔グスク数6(踏破数4:所在地判断保留数1)〕 | ||||||
ヒニグスク | 喜舎場 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
宮グスク | 渡口 | 御嶽 | 「辞典」 | ? | 「辞典」の地図では渡口公民館後方のみどり公園を指しているように見える。公園内に上の御嶽というのは存在した。宮城の嶽もあるようだが、「辞典」の御嶽分布図を見る限り少し北にあるようだ。なお、渡口村はかつて宮城村を編入した歴史がある。 | |
安谷屋グスク | 安谷屋 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
大グスク | ミーグスク | 大城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 大グスク内に大城之嶽・ミーグスク(新城)がある。各種グスク関係のサイトでは別に扱っているが、同じ丘陵上にあるので同一グスクとして扱う。 |
マーシリグスク | 熱田 | 「ぐすく」 | ○ | |||
底田原 | スクタバル | 荻道 | × | 「辞典」小字一覧表に名前が見える。奄美によくあるグスクタ・グスクダと同じであろうから、グスクとして扱う。 | ||
うるま市(勝連)〔グスク数10(踏破数7)〕〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
勝連グスク | 南風原 | 御嶽・城 | 辞典」「ぐすく」 | ○ | 「辞典」小字一覧表を見ると、城之下(シロノシタ)というグスク地名と思われる字があるが、勝連グスクに関連する地名と思われる。 | |
グスク | 浜グスク・イリグスク | 浜比嘉島(浜) | ノロ墓 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」「勝連町の遺跡」では浜グスク・イリグスクと表記し、単にグスクと表記しノロ墓と説明している文献はないが、他にグスクもないので同一と思われる。 |
比嘉グスク | アガリグスク | 浜比嘉島(比嘉) | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
クボウグスク | 津堅島 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
新川グスク | 津堅島 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
中城嶽 | 津堅島 | ○ | 比嘉繁三郎著「津堅島の記録」の地図を見ると、トゥマイ浜がある島北西部の小字を中城嶽というように見える。字内には中ノ御嶽がある。近辺には風葬墓があるようだ。なお、「辞典」小字一覧表では中城嶽という小字はなく、代わりに仲御嶽という小字がある。若干の疑問はあるが、グスクとして扱う。 | |||
ギシク | 津堅島 | ? | 比嘉繁三郎著「津堅島の記録」の地図を見ると、島北部のタナカ浜にギシクという地点があるように見える。グスク地名のようにも思われるが、これに関する説明は見つからなかったので、一先ずグスクとして扱うかは保留。 | |||
平安名上グスク | 宇江グスク | 平安名 | 「ぐすく」 | × | ||
フニグスク | 平安名 | 「ぐすく」 | ○ | 採石工事により現在は跡形もない。 | ||
チチャグスク | 浜比嘉島 | × | 「辞典」にも「勝連町の遺跡」にもない。「辞典」の浜比嘉島の項目にのみ名前がある。単なる山の名称か? | |||
浜ナゴーヌチヂ遺跡 | 浜比嘉島 | △ | 「勝連町の遺跡」ではグスクと分類されているが、グスクとは呼ばれていないようだ。参考までに載せておく。 | |||
宜野湾市〔グスク数12(踏破数7:確認数2:所在地判断保留数1)〕 | ||||||
グスクの根 | グスクンニー | 普天間 | 不明 | 「辞典」 | △ | 基地内にある。「宜野湾市史第5巻資料編4」によると、遺跡として分類されている。なお、「琉球国由来記」には普天間に宮城之殿というのがあるが、グスクンニーと関連するのかは不明。 |
喜友名グスク | 喜友名 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 戦前の県道工事と戦後の米軍の工事により破壊された。「宜野湾市史第5巻資料編4」によると、聖地・城と分類されている。 | |
ミスク | ミスクムイ | 大山 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「宜野湾市史第5巻資料編4」によると、古老の話では大山部落発祥の地ではないかとのこと。また、同上では聖地・墓地として分類されている。 |
ガネクグスク | 我如古グスク | 我如古 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「宜野湾市史第5巻資料編4」によると、聖地・城とのこと。 |
グスクヌハナ | 真志喜グスクヌハナ | 真志喜 | ○ | 「宜野湾市史第5巻資料編4」によると、墓地として分類され聖地としては取り上げられていない。「宜野湾市の遺跡」によると、貝塚時代の遺跡であるとのこと。古い門中墓が建ち並ぶ。遺跡の東半分は真志喜中学校造成の際に取り壊されたとのこと。 | ||
クガニムイグスク | 大謝名黄金森グスク | 大謝名 | 「ぐすく」 | ○ | 戦後の開発により破壊された。「宜野湾市史第5巻資料編4」によると聖地として分類されている。 | |
ウチグスク | 嘉数ウチグスク | 嘉数 | ○ | 「宜野湾市史第5巻資料編4」によると、性質は不明であり現原名とのこと。「宜野湾市の遺跡」によると遺物の組成は上グスクに準ずるとのこと。グスク周辺は住宅地であるが、グスクには古い墓が幾つかある。 | ||
上グスク | 嘉数森グスク・ウチグスク | 嘉数 | 「ぐすく」 | ○ | 「宜野湾市史第1巻」によると地元の古老がウィーグスクと呼ぶのが、「おもろそうし」で謡われている嘉数杜グスクではないかとのこと。かつては石垣があったが、首里城築城の際に持ち去られたとの伝承がある。「ぐすく」では別名ウチグスクとも書いてあるが、宜野湾市史等ではその名は見ない。「宜野湾市史第5巻資料編4」によると、聖地として分類されている。 | |
金グスク森 | 安仁屋 | △ | 「宜野湾市第5巻資料編4」によると現トゥンヤマではないかとのこと。「ぐすく」で未確認グスクとなっている安仁屋グスクはこのことか?同上によると聖地遺跡として分類されている。もっとも、「宜野湾市の遺跡」ではトゥンヤマ遺跡が金グスク森に当たるとは断言されていない。 | |||
チャシグスク | 大山 | △ | 宜野湾市史等の各種資料に名前が見えるが、場所を示したものが見当たらなかった。「地図」では場所が示されている。「宜野湾市史第5巻資料編4」によると石畳らしきものがあるらしい。分類は遺跡となっている。 | |||
アラグスク | 新城原 | 新城 | ? | 「宜野湾市第5巻資料4」によると原名とのこと。「辞典」小字一覧表には新城原という名前も見える。なお、地図を見るとウィージョーモー(上の御嶽)という丘になった場所に聖地があることから、元はここら辺をグスクと呼んだのか? | ||
グスクダ | 城田 | 神山 | × | 「宜野湾市第5巻資料編4」によると神山部落の古い名称とのこと。グスク地名なので、グスクとして扱う。なお、部落内には神嶺毛という丘があるようだ。 | ||
中城村〔グスク数6(踏破数5)〕 | ||||||
ダイグスク | 台(デー)グスク | 久場 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | すぐ近くには護佐丸一族の墓がある。小字台城原はここか。 |
中城グスク | 泊 | 御嶽・城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
ウョーグスク | 泊 | 墓地 | 「辞典」 | ○ | 「ぐすく」では未確認グスクとなっている。「中城村の拝所」によると、ウヨとはウユー(御世、古い祖先の墓)の墓と言われているとこのこと。 | |
佐久川グスク | 玉グスク | 屋宜 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「中城村の拝所」によると、玉城門中の祖霊神と言われているとのこと。 |
新垣グスク | 新垣 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
上金グスク | 和宇慶 | 不明 | × | 「中城村の拝所」にあるウガンのことか?伊集との境にあるウガン山一帯の可能性もあるが、「辞典」記載地図とは微妙に位置が違う。「琉球国由来記」では上金城之殿との名前が見える。「ぐすく」では未確認グスクとなっている。 | ||
浦添市〔グスク数9(踏破数8:確認数1)〕 | ||||||
伊祖グスク | 伊祖 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
コウグスク | 皇グスク | 城間 | 拝所 | 辞典」「ぐすく」 | ○ | 「浦添市史第4巻資料編3」によると城間公民館周辺の丘状一帯を言う。「ぐすく」によると、城間グスクと呼ばれていたものと同一のものかは判断できないとのこと。現在は宅地造成により跡形もない。なお、小字城間原というのもあるが、コウグスクがこの字内にあるかは不明。 |
デーグスク | 仲西 | 不明 | 「辞典」 | ○ | 「浦添市史第4巻資料編3」によると火山のこと。かつては宮城村に属していたようだ。グスクがある場所は、崖になっており、何本か木が生えている。グスクの上はマンション等が立ち並び、破壊著しい。 | |
浦添グスク | 仲間 | 御嶽・城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「浦添市史第4巻資料編3」によると現在のナンジャムイ・クガニムイが大城嶽、ワカレ瀬が小城嶽ではないかとのこと。 | |
勢理客グスク | グスクジョー | 勢理客 | 御嶽 | 「辞典」 | △ | 「浦添市史第4巻資料編3」等勢理客グスクと表記する文献はないが、勢理客にグスクはグスクジョーしかないので、これを指すものと思われる。正確名はグスクであり、グスクジョーとは城門原という一体の小字名。かつては石垣で囲まれたグスク内にイビが祭られていたという。また、崖下には墓があったという。現在はグスクジョー御嶽とも呼ばれるが、「琉球国由来記」にいう「コバ森 神名ゲライミヤノ御セジ」を指すという。 |
アマツギグスク | 沢岻グスク | 沢岻 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「辞典」以外にこの名で表記する文献が見当たらないが、指し示している場所から沢岻グスクと思われる。 |
ジングスク | 前田 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 現在の前田の公務員住宅及び配水池にあったようだ。高台にある前田の最高地点になっている。現在は跡形もない。 | |
親富祖グスク | 屋富祖 | 「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によると、現在の仲西中周辺のようだ。「浦添市史第4巻資料編3」では名が見えない。現在は学校及び住宅地が密集しており、原型は留めていないように見える。前掲書だと学校の北西部に隣接した場所に拝所があるようだが、発見できず。なお、学校の西側には墓地があり、グスクがあったことを偲ばせるとも言える。 | ||
内間グスク | 内間 | 「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によると、公民館周辺の丘陵一帯(安謝森?)のことらしい。「浦添市史第4巻資料編3」では名が見えない。浦添高西側は高台になっており、ここら辺であろうか? | ||
西原町〔グスク数7(踏破数6)〕 | ||||||
石スクグスク | イシグスク | 森川 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「西原町史第4巻資料編3」によると、本来はイッスクグスクと呼ばれるとのこと。「ぐすく」「西原町史第5巻資料編4」によると、地元の古老はイシグスクモーと呼ぶとのこと。 |
棚原グスク | 棚原 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 大字棚原にある小字城はここであろうか。 | |
幸地グスク | 幸地 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
グスクヌチヂ | 呉屋 | 御嶽の頂上 | 「辞典」 | ○ | 「西原町史第4巻資料編3」「西原町史第5巻資料編4」にも上の嶽(グスクヌチヂ)と名前が見える。城の頂を意味するということは、正確には下方にあるのがグスクということだろうか?そうすると、中ノ御嶽を指すのか。あるいは、グスクヌチヂの崖下に墓があったということか?草木が鬱蒼と茂っていたので探してはいないが、探せばあるだろうか。 | |
チチンダグスク | 津喜武多グスク・チキンタグスク | 小波津 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「西原町史第5巻資料編4」によると石垣のない土からなるグスクではないかとのこと。「ぐすく」の未確認グスクに小波津グスクとあるが、チチンダグスクの項目では触れられていない。こことは別にあるのだろうか?小波津の古島があると言われる上の嶽方面か? |
ヨナグスク | 我謝 | 「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によると我謝遺跡にあるうちの我謝モーとのこと。「西原町史第5巻資料編4」では我謝遺跡のうち与那城モーとのこと。中央公民館の南西部が高台になっており、東半分が与那城、西半分が我謝になるから、それぞれの字で別の呼び方にでもなるのか?なお、大字与那城に小字与那城があるが、字が移動したのだろうか? | ||
兼城原 | カナグスクバル | 小那覇 | × | 「辞典」小字一覧表に名前が見える。グスク地名なので、グスクとして扱う。かつてはカナグスクというグスクがあったのだろうか。 | ||
那覇市〔グスク数21(踏破数11 :確認数7)〕 | ||||||
天久グスク | 天久 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 中心部への道が分からず。 | |
グスク毛 | 銘苅 | 拝所 | 「辞典」 | ○ | 元は浦添市内間の区域であった。 | |
国中グスク | 首里(当蔵) | 御嶽 | 「辞典」 | × | 国中城のアマウレダケの御イベが当蔵町にあることからここか? | |
首里グスク | 首里 | 御嶽・琉球王府の城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 城内に首里森グスク(御嶽)・真玉森グスク(御嶽)、城壁近くに腓グスク(不明)あり。現在上の毛と言われている場所も築城前はグスクであったらしい。 | |
波上グスク | ハナグスク | 若狭 | 神社 | 「辞典」 | ○ | |
三重グスク | 新グスク | 西 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によると、北の砲台とも言い、外的に備える防御施設であった。三重グスクと沖ノ寺(臨海寺)との間にある小台場を三重中グスク(中グスク)と言うらしい。 |
硫黄グスク | ユーワーグスク | 通堂 | 御嶽・硫黄庫 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 現在は跡形もないが、跡地と思しき場所に拝所がある。 |
グスク嶽 | 城岳 | 楚辺 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 現在城岳公園があるところ。「ぐすく」で未確認グスクとなっている城嶽グスクはここのことか?城岳貝塚があり、古代から人が住んでいたうようである。 |
宮グスク | 宮城ノ岳・宮城森 | 寄宮 | 御嶽 | 「辞典」 | △ | 「琉球国由来記」にいう宮城ノ岳か?「那覇市史資料編第2巻中の7」では知事官舎内のウ岳が宮城ノ岳と推測している。官舎は少しだけであるが、周囲より高台となっている。 |
石田グスク | 繁多川 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 現在住宅地となっていて破壊著しい。 | |
崎原グスク | 鏡水 | 単独墓 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 陸上自衛隊基地内。「ぐすく」によると、ここをグスクと呼ぶ人はいないという説もあるとのこと。 | |
御物グスク | 看見グスク | 垣花町 | 拝所・貿易倉庫 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 米軍基地内。新田重清の文献に詳しい。 |
湖グスク | 山下町 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。「角川日本地名大辞典沖縄編」によると旧湖城村には湖城ノ嶽があり、ガジャンビラの東側に湖城ノ殿があるらしいのでこの辺りか。 | |
金城 | 金城 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 現在の小禄金城公園。 | |
池グスク | 小禄グスク | 小禄 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小禄グスクを池グスクと呼ぶ文献は見当たらないが、近辺に該当する御嶽もグスクもないのでこれを指すものと思われる。「沖縄の城跡」によると、カニマングシクとも呼ばれているとのこと。 |
ウフグスク | 大嶺 | 単独墓 | 「辞典」 | △ | 那覇空港敷地内。らしき場所に小丘があるのでそこに墓があるのかも。 | |
タマグスク | 大嶺 | 単独墓 | 「辞典」 | △ | 那覇空港敷地内。らしき場所に小丘があるのでそこに墓があるのかも。 | |
屋良座森グスク | 住吉町 | 「ぐすく」 | △ | 米軍基地内。「ぐすく」によると、南砲台と呼ばれ、三重グスクと同じく防御施設であった。 | ||
具志グスク | 具志 | 「ぐすく」 | ○ | 具志部落の北東にある小禄砂丘の小丘陵であるとのこと。「ぐすく」によると、地元は具志ウガンと呼んでいるとのこと。集落内の地図を見ると、具志御嶽というのがあるからこれであろう。場所は集落の高台にある。 | ||
宮城 | ゴシ(グス)ミヤグスク | 宮城 | × | 那覇市の字名になり、旧小禄村では高宮城といい、小禄間切の時代にはゴシ(漢字は双+牛で前者が上で後者が下になる)宮城村と呼ばれていた。「琉球船漂着始末」などに名前がある。具志村と併せてそのような村名になっていたようだ。「琉球国由来記」を見ると、拝所などはないようだが、具志の祭祀にはゴシ宮城地頭が参加するとあるので、少なくともその時代から集落があったようだ。現在、集落の半分以上が那覇基地に属していることもあり、どのような拝所があるのか分からないが、恐らくかつてはミヤグスクと呼ばれるグスクがあったのであろう。グスク地名として、グスクとして扱う。 | ||
天妃グスク | 久米 | 「ぐすく」 | ○ | 「地図」では上山中学校北側を指している。「ぐすく」では上天妃宮を指すとの説が紹介されている。 | ||
豊見城市〔グスク数16(踏破数10:確認数1:所在地判断保留数2)〕 | ||||||
瀬長グスク | 瀬長 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
豊見グスク | 豊見城グスク | 豊見城 | 御嶽・城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小字豊見城原もここであろう。 |
嘉数グスク | 嘉数 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。「豊見城村史」を見てもらしきものは見当たらない。拝所ならカニマン御嶽があるようだ。 | |
大グスク | 根差部 | 御嶽 | 「辞典」 | ? | 「地図」でグスクヌチヂと紹介されている場所のことか?「辞典」掲載地図が大雑把であるため何とも言えない。「豊見城村史」には特に該当記述なし。「神と村」によると、納骨洞穴をのことらしい。 | |
根差部グスク | 根差部 | 単独墓 | 「辞典」 | ? | 根差部児童公園隣のウガン山のことか?現段階では何とも言えない。 | |
長嶺グスク | 長堂 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「豊見城村史」によると、「琉球国由来記」ある「長嶺ノ嶽」は長嶺グスクの嶽を指すとのこと。 | |
台グスク | 長堂 | 不明 | 「辞典」 | × | 「豊見城村史」によると、長嶺グスクの東側の原野になった所が台グスクとなる。昔の城の台所があった所らしい。グスクの下方には長嶺樋川があるとのこと。 | |
金グスク | 饒波 | 不明 | 「辞典」 | ○ | 饒波にあるカニマン御嶽のことか?位置が一致しているように見えるのでこれを指すものと思われる。「豊見城村史」で引用されている「千草の巻」を見ると、孫太子の孫の饒波大神は金城にいるという趣旨の内容が書かれているように見える。村史出版時には少なくとも屋号金城という家もあったようだ。「琉球国由来記」に金城の殿があるが、現在の神アシャゲを指すらしい。もっとも、金城の殿は金満御嶽とは別の場所にあるようで、正確な位置については検討を要する。 | |
大グスク | 平良or饒波? | 墓地 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。 | |
ユダマグスク | 平良 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 場所は合っていると思われるが、どこが中心部かは不明。「豊見城村史」によると、上田部落の祖先の墓があるという。 | |
平良グスク | 平良 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 場所は合っていると思われるが、どこが中心部かは不明。頂上付近脇に小道があり、そこを進むと崖下に古い墓がある。 | |
保栄茂グスク | 保栄茂 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小字城の下原にある | |
石原グスク | 翁長 | 「ぐすく」 | ○ | 場所は合っていると思われるが、グスクの範囲は不明 | ||
渡橋名グスク | 渡橋名 | 「ぐすく」 | ○ | |||
渡嘉敷グスク | 渡嘉敷 | ○ | 「地図」には名がある。しかし、「豊見城村史」を含めその他文献には名が見えない。もっとも、古来よりの重要な拝所であり、御嶽があるのでグスクと呼ばれていたとしても全く不思議ではない。 | |||
デーグスク | 豊見城 | △ | 「地図」に名があるが、本当にこの位置なのか疑問。 | |||
南風原町〔グスク数5(踏破数2:確認数1)〕 | ||||||
宮グスク | 宮城 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「ぐすく」では未確認グスクとなっている。小字宮城原もここか?「辞典」小字一覧では大字大名にあるが、宮グスクは大名に極めて隣接しているので、一先ず一つのグスクとして数える。 | |
城の森 | 与那覇グスク・グスクヌチヂ | 与那嶺 | 御嶽 | 「辞典」 | △ | 平場にクボウ嶽あり。「ぐすく」では未確認グスクとなっている。 |
内嶺グスク | ウチンミグスク | 兼城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小字兼城原もここであろうか |
デームイ遺跡 | 照屋 | × | グスクとしては数えないが、「南風原町史」によるとデームイのデーとはグスクまた支城につけられたものと考えられると記述しているので紹介しておく。かつてグスクと呼ばれた可能性はありそうだ。 | |||
仲間グスク | 津嘉山 | ○ | 「島尻郡誌」で仲間グスクとして紹介されているようだが、「南風原町史」ではクニンドー(毛)遺跡として紹介されている。地元では仲間グスクと呼んでいない模様。 | |||
宇底堂原 | ウスクドウバル | 宮平 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。底とあるが、スクと読むので、一先ずグスク地名として扱う。もっとも、アコウを意味するウスクの可能性もあるか。 | ||
南城市(大里)〔グスク数8(踏破数4:確認数1)〕 | ||||||
大里グスク | 島添大里グスク | 大里 | 御嶽・城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
ミーグスク | 大里 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
玉村グスク | 大里 | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 「辞典」の地図ではギリムイ御嶽近辺を指し示しているように見える。「大里村史通史編」によると、玉村按司の居住地はギル森城だったようだと書かれているので恐らくここであろう。御中先山の城とも呼ぶらしい。 | |
仲間グスク | 仲間? | 御嶽 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。仲間集落は明治時代に出来たものなので仮称か?「琉球国由来記」「大里村史通史編」にも近隣集落でらしき名前がない。 | |
大グスク | 大城グスク | 大城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小字城原もここか? |
小グスク | 大城? | 御嶽 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。「辞典」の地図は東雲の丘を指しているように見える。「琉球国由来記」「大里村史通史編」にもらしき名前がない。少し離れているように見えるが大城按司の墓か? | |
山グスク | 大城 | 「ぐすく」 | △ | 稲福遺跡周辺のこと。 | ||
高宮城原 | タカミヤギバル | 高平 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。グスク地名であろう。「南島の地名第4集」に掲載されている「琉球船漂着始末」を見ると、高宮城(タカミヤゴスコ)という地名が見える。 | ||
宮城 | ミヤゴスコ | × | 「南島の地名第4集」に掲載されている「琉球船漂着始末」を見ると、大里にこのような地名があるようだ。現在でもあるかは謎なので、グスクとしては数えません。参考までに掲載しておく。 | |||
南城市(佐敷)〔グスク数5(踏破数1)〕 | ||||||
宮グスク | 新里 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 新里に宮城之殿はあるが、「辞典」掲載地図の位置とずれているように見える。 | |
グスク返し | 新里or兼久 | 墓の上の地点 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。「佐敷町史2民族」にも名が見えない。丘陵の頂上を指すのか? | |
佐敷上グスク | 佐敷 | 御嶽 | ○ | |||
チャーグスク | キヤグスク・屋比久グスク? | 屋比久 | 御嶽 | × | 「琉球国由来記」にいうキヤ城ノ嶽のことか?キヤが変化してチャーになったと思われるし、位置がほぼ一致するようにも思われる。「ぐすく」では屋比久グスクと表記されている。 | |
山城原 | ヤマシロバル | 小谷 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。「やましろ」と呼ぶが、元はグスクと呼んでいたと思われるので、グスク地名として扱う。 | ||
南城市(知念)〔グスク数10(踏破数6:確認数1)〕〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
知名グスク | 知名 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小字知名城原もここであろう。 | |
安座真グスク | 安座真 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
ユナグスク | ヰナグナーワンダーグスク | 久手堅 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | ユナグスクと表記した文献は他に見当たらないが、位置が一致するので同じと思われる。 |
ソージグスク | 寒水グスク | 吉富 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | |
知念森グスク | 知念グスク | 知念 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
ハダマグスク | 知念 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 地図が指し示す場所に神山の殿がある。周辺はかつて波田真村であり、「琉球国由来記」によると神山の殿は波田真村の御嶽とあるのでこれと思われる。または近くにある波田真の殿か。 | |
グスク | 古間グスク・カンチャグスク | 志喜屋 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 単にグスクと表記した文献は見当たらないが、位置が一致するので同じと思われる。 |
前グスク | 志喜屋グスク | 志喜屋 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 前グスクと表記した文献は他に見当たらないが、位置が一致するので同じと思われる。 |
テミグスク | 久高島 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
ウフグスク | ウフグスクグスク | 久手堅 | 「ぐすく」 | ○ | 知念体育館等の造成により完全に破壊された。「南島の地名第4集」によると、グスクがある場所がウフグスク原になり、グスクはウフグスクグスクという表記が正しいようである。 | |
須久名山 | 久原 | × | 久原の東、知名の西側にある山になる。個人的にはグスク地名のように思われるが、目立つ場所な割にグスクとして扱っている文献がないので、一先ずグスクとして扱うかは保留。なお、大字久原には小字西須久名原という地名がある。 | |||
南城市(玉城)〔グスク数15(踏破数8:所在地判断保留数1)〕 | ||||||
船越グスク | 船越 | 御嶽 | 辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
糸数グスク | 糸数 | 御嶽・豪族の居館 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
根石グスク | 糸数 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
ヤッカングスク | 屋嘉部? | 単独墓 | 「辞典」 | × | 名前と「辞典」記載地図の位置から推測するに屋嘉部と思われる。屋嘉部按司の墓はあったが、「辞典」記載の地図とは場所が少し違うように思われる。「玉城村史」等の他の資料にも名が見えない。宇底堂原(ウスクドウバル)というグスク地名らしき小字が大字屋嘉部にはあるが、関係はあるのか? | |
クバグスク | 富里? | 御嶽 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。「琉球国由来記」によると、富里村にある上栄田之嶽の神名にコバ城之御イベという名はある。屋嘉部にもコバウノ嶽御イベがあるからこちらの可能性も。国民運動場の北側にある崖周辺の墓か? | |
安次富グスク | 富里 | 単独墓 | ○ | イマイチ正確な場所が掴めないが、「玉城村史」「琉球御嶽伝説」を見る限り尚泰久の墓周辺のことは確かなようだ。 | ||
仲間グスク | 仲栄真グスク | 富里 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 国民運動場にて崖中腹の墓等を撮影しているが、場所が違ったか? |
玉城グスク | アマッズ(天頂)グスク | 玉城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
タカラグスク | 玉城 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 琉球ゴルフ倶楽部敷地内。「玉城村史」を見ると、タカラグスク玉城王の墓と書かれている。場所が同じなのは確かだが、同じものを指すのかは判然としない。 | |
ミントングスク | 仲村渠 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
垣花グスク | 垣花 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
タカラグスク | イリグスク | 奥武島 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「辞典」表記の地図の位置からは西之嶽だと思われる |
奥武グスク | アガリグスク | 奥武島 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「辞典」表記の地図の位置からは東之嶽だと思われる |
大川グスク | 當山or富里 | ? | イマイチ正確な場所は不明だが、「玉城村史」を見る限り尚泰久王の墓周辺であり、安次富グスクのすぐ近くなことは確か。安次富グスクのすぐ北側の崖周辺という話を聞いたことがある。 | |||
大城グスク | 百名 | 「ぐすく」 | ○ | |||
八重瀬町(東風平)〔グスク数8(踏破数5)〕 〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
チヂグスク | 宜次 | 不明 | 「辞典」 | × | 東風平教育委員会発行の「殿・御嶽・井戸調査報告書」によると頂城之殿は現テンチヂグスクノ殿となっている。 | |
テンチヂグスク | 宜次 | 不明 | 「辞典」 | × | 東風平教育委員会発行の「殿・御嶽・井戸調査報告書」によると頂城之殿は現テンチヂグスクノ殿となっている。 | |
カナグスク | 東風平 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 金満御嶽のことか?「ぐすく」では未確認グスクとなっている。 | |
テミグラグスク | ヤグチグスク | 当銘 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によるとここを治めていた按司の名前がテミグラと言うらしい。小字小城原はここであろうか?「辞典」小字一覧表では大字小城にあることになっているが、テミグラグスクは当銘と小城の境界にあるので、問題ないと思われる。 |
世名グスク | ウィユナグスク | 高良 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」では世名城部落の南南東にあると書かれているが、南南西の間違いだと思われる。高良からだと南南東になる。グスク自体は高良にあるが、高良は世名城から分離した村であり、拝所も共通する。小字世名城原もここであろうか?もっとも、「辞典」小字一覧表では大字高良ではなく、大字世名城にあるので、違う可能性もある。 |
ヂリグスク | 勢理グスク | 富盛 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | グスク内には石彫大獅子がある。 |
富盛グスク | 富盛 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「殿・御嶽・井戸調査報告書」や「ぐすく」等の一般的文献では八重瀬グスクと富盛グスクは同じである。もっとも、「東風平町文化財」」の富盛の拝所一覧を見ると、富盛城之殿と八重瀬之嶽と名前が使い分けられているからグスクも別にある可能性は否定できないのかも。 | |
八重瀬グスク | 富盛 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 富盛グスクの説明を参照。 | |
糸満市〔グスク数50(踏破数36:確認数5:所在地判断保留数3〕〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
武富グスク | 武富 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
阿波根グスク | 阿波根 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 頂上付近は貯水タンクが建設されているため破壊されている。 | |
賀数グスク | 賀数 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | グスク頂上へ続くと思しき道はあったが、草木が険しかったので断念。 | |
潮平グスク | 潮平 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 現在は壊滅して跡形もない。亀甲墓が少しある程度。 | |
奥間グスク | 兼城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 元はこちらが兼城と言ったらしい。 | |
兼城グスク | カニマルグスク | 兼城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
グスク | 兼城 | 不明 | 「辞典」 | × | 「辞典」記載地図と集落の配置から想像するに、兼城コミュニティセンターの後方か?「糸満市文化財地図」には記載がない。 | |
二股グスク | イリグスク | 大里 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ウンチュウグスク・大城森グスクとも言うらしい。同じ丘陵上にあるが、丘陵の両端にそれぞれあるし、成立の歴史・年代が違うので別に扱う。 |
二股グスク | アガリグスク | 大里 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | イリグスクの説明を参照。 |
照屋グスク | ウチバルグスク・ティラグスク | 照屋 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 仲松弥秀は御嶽と分類しているが、「ぐすく」によると、貿易公庫・出城説などあり、性格ははっきりしないようである。もっとも、訪れた感じでは成立目的自体は御嶽の性格を帯びているように思う。 |
南山グスク | 高嶺グスク・島添大里グスク | 大里(高嶺) | 御嶽・城 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
与座グスク | ハジングスク | 与座 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 与座にはグスクが他にも3つあり、またこのグスクは部落から離れている。 |
国吉グスク | 国吉 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
新垣グスク | 新垣 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」や糸満市役所の話では拝所があるとのことだが、イマイチ不明であった。グスクの北側に拝所や井戸はあった。 | |
中グスク | 先中グスク・真栄里グスク | 真栄里 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ロンドン杜公園に隣接する老人ホームの駐車場がグスク入口となる。331号線脇からも入口があるようである。 |
クミグスク | 真栄里 | 御嶽 | 「辞典」 | ? | 「辞典」記載地図の位置的にロンドン杜公園東側から真栄里集落辺りか?殿などの拝所を幾つか見かけたのでその周辺か? | |
チングスク | 真栄里 | 単独墓 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 按司墓のようである。 | |
名城グスク | フェンサグスク | 名城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 貝塚時代・グスク時代の遺物が重なるグスクであり、グスクの発生を考える上で考古学的に価値のあるグスクのようである。グスク内には按司墓がある。小字名城原はここになるのだろうか? |
小波蔵グスク | チチャマグスク | 名城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 最近設置されたのか石標がたくさんあり、一見変わった感じのグスクとなっている。 |
仲間グスク | 小波蔵 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 老人ホームが建てられ、グスクはほとんど破壊されている。周辺に拝所は残っているようである。 | |
安里グスク | 糸洲 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | グスク中心部・グスクへの入口はイマイチ不明であった。墓や僅かな石積みはあった。 | |
糸洲グスク | 糸洲 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
伊敷グスク | 伊敷 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
真壁グスク | 真壁 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 糸満市役所の担当者によると地元ではグスクとは呼ばれておらず、ティラと呼ばれていたようである。 | |
ナカマグスク | 真壁 | 不明 | 「辞典」 | △ | 位置からして仲間遺跡のことだと思われる。糸満市役所で聞いた話では古島であったらしい。入口があったかは不明とのこと。今でも関係門中が近くに住んでいるとのこと。 | |
宇江グスク | 東江グスク | 宇江城 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | グスク内部への道は見つからなかった。 |
カナグスク | 御嶽 | 「辞典」 | ○ | 正確な位置は断言できないが、恐らく宇江城古島遺跡だと思われる。ここら一帯は拝所が散在し、僅かながら高台になっている場所も存在した。もっとも、他のグスクや御嶽とは若干雰囲気が違うようにも思われる。 | ||
ブリバルグスク | 真栄平 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 近辺にある御嶽は訪れたが、グスクより南側であったようだ。現在はほぼ破壊されて原型を留めていないとのこと。 | |
古グスク | 喜屋武古グスク | 喜屋武 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 部落の北方にあるが、訪れた感じでは古島という感じはしなかった。墓はあったが、按司墓かどうかは不明。 |
波平グスク | 波平 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | グスクは部落の南方にあるが、「ぐすく」によると、かつてはグスクの南方にあった部落が現在の位置に移動したとのこと。グスク北側の麓に拝所は幾つかあるが、グスク内部へは南側からでないと行けなさそうである。 | |
伊礼下グスク | 伊原or南波平 | 不明 | 「辞典」 | △ | 現在の伊原遺跡か伊原伊礼原遺跡辺りと思われるが、採石工事と道路工事のため破壊著しい。 | |
伊礼上グスク | 伊原or南波平 | 不明 | 「辞典」 | △ | 現在の伊原遺跡近辺だと思われるが、採石工事と道路工事のため破壊著しい。「ぐすく」掲載図を見ると、近くに御嶽があるようだ。 | |
石原グスク | 伊原グスク | 伊原 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
米須グスク | 米須 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
ガーラグスク | 大渡 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「ぐすく」によると、現在のさつきの城辺りだそうだが、糸満市発行の地図「糸満市文化財分布図」を見ると東側の崖まで含んでいる。そして、崖には古墓が散見された。 | |
里グスク | オドサトグスク | 大渡 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「辞典」「ぐすく」によるとガーラグスクの東方にあるが、「糸満市文化財分布図」では糸満清明病院の東にある。どちらかの間違いなのか、2つあるのかは不明。 |
摩文仁グスク | 高摩文仁グスク | 摩文仁 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | |
具志川グスク | 喜屋武 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | うるま市と久米島の具志川グスクとの関連性が指摘されている。 | |
トウマグスク | 喜屋武 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 仲松弥秀は墓地と分類しているが、「ぐすく」では集落跡か支城の可能性を示唆している。西側に門中の拝所と思しきものがあった。グスク内部へは雑木が生い茂っており進入不可能。 | |
束辺名グスク | ミーガーグスク | 束里 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 採石場があるため破壊を受けてグスク概要が把握できなかった。「糸満市文化財分布図」では85束辺名古島遺跡と書かれているが、糸満市の担当者曰く単に表記ミスとのこと。 |
山城上グスク | 山城グスク | 山城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 「ぐすく」によると別名上(イー)グスクと呼ぶようなのでこれが山城上グスクであろう。もっとも、「沖縄南部旧喜屋武間切のグスク群について(一)」當眞嗣一によると、上里グスクをイー(上)グスクといい、山城グスクをシチャ(下)グスクと呼んでいるとある。管理人が訪れたときは草木が生い茂り進入が困難であった。なお、山城原という小字もある。 |
山城下グスク | 山城 | 不明 | 「辞典」 | ? | 集落の上にあるのが上グスクなので集落に近い方にあると思われる。もっとも、通常はグスクの南に集落があるところ、山城集落はグスクの北側にあった。小さな丘や拝所は幾つかあったが、どこがグスクなのかは判別不能。 | |
上里グスク | 束里 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 城内にアガリグスク(御嶽)、イリグスク(御嶽)があるとのこと。 | |
サケグスク | 佐慶(サチ)グスク | 山城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 道路沿いから及び崖下を見てみたが、グスク内部への進入路は見つけられなかった。もっとも、グスク内部の石垣を見つけたとするホームページでの報告はある。崖の中腹にある墓は按司墓っぽかった。 |
カタハラグスク | 喜屋武 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 「ぐすく」によると、元は崖に付きだしていたと思われるが、何らかの作用で落ちてしまい調査は困難とのこと。倉庫ではないかとのこと。 | |
フナスク原 | 喜屋武 | × | 「辞典」小字一覧表に名前が見える。グスク地名の可能性があるので、紹介しておく。グスクとして扱うかは一先ず保留。 | |||
上座グスク | 与座東グスク | 与座 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、与座グスクの南西にあるらしい。西側であれば神社・殿などがあり丘もあった。 | |
アカチチグスク | 与座 | ○ | 部落の東側コミュニティセンターのすぐ近くにある。勝連墓がある。糸満市役所で聞いた話だと勝連グスクから派兵された兵が戦って死んだ跡だという。 | |||
佐久間グスク | 与座 | × | 「辞典」の与座岳の項目によると、与座岳北西頂上部に佐久間グスク跡があるとこのこと。上座グスクの位置と近いようにも思うが、別として扱う。 | |||
真栄平グスク | 真栄平 | 「ぐすく」 | ? | 「ぐすく」と「糸満市文化財分布図」では集落の北西にあるとのことだが、グスクと思しき御嶽と分布図の位置はずれているようにも思える。「地図」では御嶽周辺を指し示している。 | ||
ハガー原グスク | 摩文仁 | × | 「糸満市文化財分布図」で名が見える。分布図の範囲を見ると、八重瀬町仲座にも広がっているように見える。 | |||
八重瀬町(具志頭)〔グスク数6(踏破数5)〕 | ||||||
山城 | 新城 | 墓地 | 「辞典」 | × | 「具志頭村の文化財」によると、新城グスクのすぐ東北側にある丘陵が山城とのこと。見張り所であったという。もっとも、仲松弥秀は墓地と分類している。 | |
新城グスク | 新城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小字新城原もここであろうか。 | |
ミドリグスク | 具志頭 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
具志頭城 | 具志頭 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | ||
ハナグスク | 多々名グスク・多々良グスク | 玻名城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 雑木が生い茂り、グスク内部までは進入できなかった。 |
与座上グスク | 上グスク・具志頭上グスク | 与座 | 御嶽 | ○ | ||
伊平屋村〔グスク数3(踏破数2)〕 | ||||||
田名グスク | 田名 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 集落の北方、後岳の手前の山中に石垣と拝所がある。なお、田名グスクと書いてウッカーグスクと言うようだ。「琉球国由来記」にいう「城嶽御イベ」はグスク内にある御嶽のようだ。 | |
ヤヘーグスク | 田名 | 「ぐすく」 | ○ | 麓には人為的に積んだと思われる石積みが残っている。「ぐすく」によると、頂上がグスクとなるようだが、登るのが困難なため断念。何故、グスクと呼ばれるのか若干不思議な遺構である。「伊平屋村史」では、「築城の跡」と書かれており、城跡として認識されているようだ。ヤヘーは漢字で書くと弥兵衛となる。「伊平屋列島文化誌」によると、南進してきた大和民族の初上陸地と伝わるという。 | ||
屋蔵グスク | グスク | 我喜屋 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では未確認グスクとなっているが、グスクは墓であるという管理人の考え方からすると、前泊港の南側にある屋蔵墓ではないかと一見思われる。しかし、屋蔵墓については、「伊平屋村史」「伊平屋列島文化誌」ではグスクとも城跡とも説明している項目は見つからなかったし、墓なのに「辞典」のグスク一覧にも名前がないのが引っかかる。「伊平屋村史」によると、賀陽嶽の頂上に石積があり、その場所は城(ぐすく)と称えられているとのこと。また、恐らくそこが屋蔵大主の城跡ではないかと書かれていることから、「ぐすく」にいう屋蔵グスクは賀陽嶽の石積みであろうか。 | |
伊是名村〔グスク数4(踏破数4)〕 | ||||||
伊是名グスク | 伊是名 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | グスク内には「琉球国由来記」によると、高城ミヤ御イベと大城ミヤ御イベがある。 | |
アマグスク | 勢理客 | 「ぐすく」 | × | 現在の地図でも島中央の標高102mの山の名前が天城となっている。なお、正確には山がある周辺一帯の地名を天城と言うようだ。地元で聞いたところ、特に拝所といったものはないとのこと。「中山世鑑」には阿摩美久の天孫降臨の話が載っているようだ。「伊平屋列島文化誌」によると、大昔支配者の城(屋敷)であった跡があり、神代時代と関連する遺跡だと推察している。 | ||
城前田 | 仲田 | ○ | 仲田のアーガ山東側、集落の西側の小字を城前田というようだ。その名の通り、グスクの前にある田という意味だと思われる。肝心のグスクはどれかという疑問があるが、伊是名グスクからは距離的にも方向的にも微妙であり、アーガ山がグスクであれば納得の行く配置である。字名ではあるが、グスクとして扱っておく。 | |||
玉城 | 諸見 | ○ | 「伊平屋列島文化誌」を見ると、メンナー岳(天孫岳・御岳)について、玉城城跡と書かれた場所が見受けられる。按司時代の城であるらしい。麓には神社があり、「琉球国由来記」にいう「ヤブサス嶽御イベ 神名 キウノ森」になる。「伊是名村 下巻」によると、地元ではイサシ御嶽とも言うらしい。「ぐすく」の未確認グスク一覧にある諸見玉グスクはこれのことか?もっとも、同書では所在地が伊平屋島になっている。 | |||
粟国村〔グスク数1〕 | ||||||
ウエガーグスク | 八重川グスク・ヤエガーグスク | 東 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、東集落の西側標高50mの所にあるとのこと。「地図」を見ると、八重川グスクとエーガーグスクが二つ隣接してあるようだが、読みの違いではないのだろうか?前者は「ぐすく」で、後者は「粟国村の遺跡分布図」「粟国島文化財マップ」でそれぞれ紹介されているとのこと。グスク数については要検討とします。 |
渡名喜村〔グスク数7〕〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
イリグスク | 入砂島 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 入砂島は御嶽が4つあるので、そのうちのどれかであろう。地形図を見る限り、島の中央・南・南西に小丘が計3つある。現在は米軍爆撃演習地となり跡形もないらしい。なお、「渡名喜島の遺跡T」によると、出砂(現在の入砂島のこと)根神と称する者が三人いるという。 | |
ハエグスク | 入砂島 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 入砂島は御嶽が4つあるので、そのうちのどれかであろう。地形図を見る限り、島の中央・南・南西に小丘が計3つある。現在は米軍爆撃演習地となり跡形もないらしい。なお、「渡名喜島の遺跡T」によると、出砂(現在の入砂島のこと)根神と称する者が三人いるという。 | |
アガリグスク | 入砂島 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 入砂島は御嶽が4つあるので、そのうちのどれかであろう。地形図を見る限り、島の中央・南・南西に小丘が計3つある。現在は米軍爆撃演習地となり跡形もないらしい。なお、「渡名喜島の遺跡T」によると、出砂(現在の入砂島のこと)根神と称する者が三人いるという。 | |
アマングスク | アマグスク | 渡名喜島 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、島の西海岸にある。タカタンシと呼ばれる岩から南に200mの地点。「地図」を見ると、港の南にある山(64m)の東側中腹にあるようだ。 |
スンザグスク | スンジャグスク | 渡名喜島 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、島の東海岸にある。標高60〜70mにあるとのこと。「地図」を見ると、東浜南端にある山のようだ。 |
中森スク | 渡名喜島 | 不明 | 「辞典」 | × | 「渡名喜島の遺跡T」によると、中森スクズクのネークヮ嶽御セヂガナシというのが大岳にあるとのことなので、これのことであろう。その崖下には人骨の見られる岩陰穴が三ヶ所存在し、この付近に村落があったという。 | |
西底原遺跡 | 渡名喜島 | × | 「辞典」を見ると、渡名喜小中学校の東隣にあるようだ。読みはニシスクバルと読むようだ。グスクとして扱うかは一先ず保留。「渡名喜島の遺跡」「渡名喜島遺跡群」で紹介されているようだ。 | |||
グスク山 | 渡名喜城跡 | 渡名喜島 | × | 「沖縄の城跡」で紹介されている。他の文献で紹介されていないのが若干気になるが、俗称グスク山として紹介されているので、グスクとして扱います。集落の南にある丘陵で海抜82mの地点にある山城だという。慶良間の軍勢と戦争を繰り返した激戦地であったという。 | ||
里遺跡 | 渡名喜島 | 不明 | 「ぐすく」 | × | 地元ではグスクと呼ばれていないが、性格がグスクであるため「ぐすく」ではグスクとして扱っている。グスク名称がない以上、本サイトではグスクとしては扱いませんが、参考までに載せておきます。 | |
久米島町(具志川)〔グスク数9〕 | ||||||
具志川グスク | 仲村渠 | 御嶽・豪族の居館 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 糸満市とうるま市具志川にある具志川グスクとの関連性が指摘されている。 | |
小グスク | 仲地 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、君南風東にある道を北東に300m行くと遥拝所があり、そこから150m程北に登ると小グスクと呼ぶ場所に出るそうだ。地形図を見る限り、確かに君南風殿内の東に道が確認できる。また、北には確かに山が確認できるが、地形図を見る限り150m以上先にあるように思われる。 | |
ウスク川原 | 仲地 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。グスク地名と思われるので、グスクとして扱う。グスク+川+原とするなら上記小グスクと関連する可能性もあるが、一先ず別として扱う。 | |||
マカイグスク | 兼城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、兼城部落内にかつてあった浜川という集落の前方にある浜川前にある。高さ5m周囲100m程の丘のようだ。なお、兼城には小字金城(読みはカネグスクとは読まず、キンジョウであるが)があり、グスク数については検討の余地があるかも。マカイグスクの他に兼城御嶽があるし、別に扱ってもいいかも。 | |
チナハグスク | 伊敷索グスク | 嘉手苅 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 久米島病院の奥にある。 |
クィングワグスク | 北原 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、仲地部落から西へ3kmのタンジュ原の海岸に接する所に石垣があったという。今は場所の確認が不可能。単純に仲地部落から3km先を計ると空港の敷地になっている。「地図」を見ると、空港滑走路北側の東隣のようだ。同サイトを見ると、グスクの南方にクイングァグスク遺物散布地もあるようだ。グスクとはそこそこ離れているように見えるが、クィングワ(クイングァ)とは字名なのか? | ||
富祖久 | フスク | 上江洲 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。「地図」ある富祖古グスク(フーク嶽)のことか?だるま山頂上(203m)にあるようだ。 | ||
本仲グスク | フンナカグスク | 山里 | × | 「地図」を見ると、だるま山の西側400mぐらいの地点にあるようだ。他の文献では名前を見たことがないが、同サイトによると、「久米島総合調査報告書−自然・歴史・民族・考古・美術工芸・建築−」に載っているようだ。 | ||
城田 | グシクダ | 西銘 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。グスク地名なのでグスクとして扱う。 | ||
久米島町(仲里)〔グスク数15(踏破数1)〕 | ||||||
大グスク | 宇江城 | 不明 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。地図から推測すると現航空自衛隊基地辺り? | |
上グスク | 仲里グスク・宇江城グスク | 宇江城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 小字城原もここであろうか。訪れたときはデジカメを持っていなかったので写真はなし。 |
黒石森グスク | 阿嘉 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 下阿嘉にある黒石ムイのことであろう。 | |
トンナハグスク | 登武那覇グスク | 宇根 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | トンナハ山にある。 |
スク山 | 儀間? | 不明 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。「地図」が大雑把過ぎるため何とも言えないが、表記する位置は嘉手苅・儀間部落北にある平野辺りを指しているように見える。仲里村史等の資料を当たれば分かるかも知れない。なお、儀間には小字底原(スクバル)がある。山と原では地形が違うので、違うグスクの可能性もあるが、一先ず儀間ではグスクは一つとして扱っておく。 | |
山玉グスク | 山城 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「地図」を見ると、集落南西にある山の最高点(152m)にほぼ隣接した場所にあるようだ。 | |
メンダグスク | 山城 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「辞典」の山城の項目によると、山城集落の西方丘陵をメンダグスクというと書いてある。「地図」を見ると、山玉グスクのすぐ北東にあるようだ。 | |
久根グスク | クニグスク | 山城 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、山城部落から県道を隔てて300mの位置、ウニシグスクの東にあるとのこと。しかし、「地図」を見ると、ウニシグスクより北西にある。集落のほぼ南、山玉グスクの東300mぐらいにある。 |
ウニシグスク | 山城 | 「ぐすく」 | × | 山城集落の南西にあり県道を挟んで400mのところにあるとのこと。ウニシ岳の峰沿いにある。「地図」を見ると、クニグスクのすぐ南東にある。 | ||
スハラグスク | 塩原グスク・銭田グスク | 銭田 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | |
ユナミグスク | 与那嶺グスク | 島尻 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | |
天宮グスク | アンマーグスク | 宇江城 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」「久米島町の文化財」で紹介されている。 | |
ミンチャブナーグスク | 宇江城 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、宇江城グスク近くの美池原にあった小さな石垣の囲いのことらしいが、今はパイン畑になって見る影もないとのこと。「地図」を見ると、山の中腹にあるようだ。 | ||
御登野城 | ウントノグシク | 比嘉 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。グスク地名と思われるので、グスクとして扱う。 | ||
マガイ底原 | マガイスクバル | 真我里 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。底とあるが、スクと読むし、地名+グスクバルというパターンだと思われるので、グスクとして扱う。 | ||
座間味村〔グスク数6(踏破数2:確認数2)〕 | ||||||
前グスク | 座間味 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「地図」の位置は恐らく間違い。小字底原(スクバル)はここになるだろうか? | |
シルグスク | 阿真 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | △ | 「辞典」小字一覧を見ると、白城(シルグスク)と深城(フカシル)がある。しかし、地図を見る限り、シルグスクがある場所は深城のようにも見える。両字とも城という漢字を使いながら、それぞれ読みが違うことは何を意味するのか?深城の方はグスクを意味しないで当てた字なのか?いずれ再訪した上で整理したいところ。一先ず、グスクは一つとして扱う。なお、慶良間では瀬戸(水路)のことをシルと言うようなので、それと関係するのかも。 | |
底原 | スクバル | 阿真 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。グスクバルと同じ語源だと思われるので、グスクとして扱う。 | ||
グスク山 | 阿嘉 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | ○ | 「地図」の位置は恐らく間違い。御嶽が平場の奥にあるようだ。 | |
アマングスク | 阿嘉 | 拝所 | 「辞典」 | ○ | 「ぐすく」「座間味村史」では紹介されていない。昭文社が少なくとも平成21年までに発行した沖縄県地図ではサクバル城跡と書かれているが間違い。平成22年発行分からは訂正されていると思う。 | |
ツミシルグスク | ツン(積)グスク | 阿嘉 | 不明 | 「辞典」 | △ | |
渡嘉敷村〔グスク数2:確認数2〕 | ||||||
安禰宜グスク | 城島 | 御嶽 | 「辞典」 | △ | 何故か「ぐすく」では未確認グスクとなっている。「琉球国由来記」記載のグスクであり、「渡嘉敷村史」でも紹介されている。小字城原はここになるだろうか。 | |
ヂングスク | ジングシク | 阿波連 | 不明 | 「辞典」 | △ | 前岳の隣にある山のようだ。 |
宮古島市(平良)〔グスク数12〕〔グスク判断保留数2〕 | ||||||
フースク | 狩俣 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「琉球国由来記」にいう大城御嶽(大森)のことであろう。ウフグスクが変化したものであろう。「ぐすく」では名前が表記されているだけで説明文はない。「宮古風土記(下巻)」では、大城御嶽(うぷぐふ)とある。集落始まりの地とのこと。 | |
多志スク | 大浦多志グスク | 大浦 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」でいう大浦多志(ウプラタティ)遺跡か?「辞典」の大浦の項目によると、集落の東側にある丘陵に大浦多志城があるとのこと。「ぐすく」によると、丘陵で拝所もあるようだ。大浦御嶽とは別。 |
石原スク | 伊佐良グスク | 東仲宗根 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」でいうイサラバリ(石原城)遺跡であろう。 |
糸数スク | 御嶽 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。「ぐすく」によると「宮古記事仕次」には名前が出てくるとのこと。「ぐすく」の地図では場所は判明していることになっているが、遺跡一覧表には名前が載っていない。 | ||
外間スク | 東仲宗根 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 外間御嶽のことか?「ぐすく」では外間城は現地で確認が出来なかったのと、聞き取り調査で判然としなかったこともあり、リストから除外したとのこと。「宮古記事仕次」に、堅固な城であったとの紹介があるとのこと。 | |
根間スク | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「沖縄の拝所300」では目黒盛が居住する城を根間城として書いている。「ぐすく」では外間城と同様の理由で除外。なお、「ぐすく」の地図では根間外間グスクと表記されている。 | ||
モリカスク | 東仲宗根(東川根) | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 盛加(ムイカ)御嶽であろう。「ぐすく」では遺跡一覧表に名前が載っているだけで説明文はない。「宮古風土記(下巻)」でも、盛加御嶽として紹介されている。悪心を持つ鬼を退治する神がいるという。 | |
西銘スク | 北増原 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」でいう西銘城跡であろう。 | |
飛鳥スク | 西銘飛鳥グスク・西銘グスク | 東仲宗根添・増原 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」でいう飛鳥御嶽遺跡であろう。こちらも西銘城と呼ばれているとのこと。「宮古島市の文化財」では西銘御嶽として紹介されている。「宮古風土記(下巻)」でも飛鳥御嶽(とびとり)として紹介されている。小丘上にあるとのこと。祭神は飛鳥爺だという。 |
上の頂遺跡 | 西仲宗根 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、御嶽あり。採石によって壊滅状態とのこと。グスク名称はないので、グスクとしては数えません。 | ||
オイオキ原遺跡 | 福山 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、石積みはあるが、拝所はない。石積みや遺跡の性格については判然としていないとのこと。グスク名称はないので、グスクとしては数えません。 | ||
サガーニ遺跡 | サガニ | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、石積みと拝所あり。グスク名称はないので、グスクとしては数えません。 | ||
保里グスク | 西仲宗根? | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、「宮古庶民史」に名前が出てくる。保里遺跡のことらしいが、遺跡一覧表に名前が載っているだけで説明文はない。 | ||
テラフググスク | 西里?東仲宗根? | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、「宮古庶民史」に名前が出てくる。「ぐすく」の地図では場所は判明していることになっているが、遺跡一覧表では名前が載っていない。 | ||
新城御嶽 | 狩俣 | × | 「琉球国由来記」に記載があり、現存するようなので、グスクとして扱う。もっとも、仲松弥秀は御嶽としては扱っているが、グスクとしては扱っていない。 | |||
アラストグス | 池間 | × | 「地図」を見ると、集落の北部にあるようだ。グスク名のように思われるので、掲載しておく。「宮古の遺跡」に掲載されているようなので、元資料等を確認するまでグスクとして扱うかは保留。 | |||
ムイスク | 池間 | × | 「地図」を見ると、池間大橋から下りてすぐ北側にある丘を言うようだ。グスク名と思われるので、掲載しておく。「宮古の遺跡」に掲載されているようなので、元資料等を確認するまではグスクとして扱うかは保留。 | |||
宮古島市(下地)〔グスク数4〕 | ||||||
浦島大立スク | 川満 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 正確な位置は不明。「ぐすく」によると「雍正旧記」に名前が出てくるとのこと。「ぐすく」では場所不明として扱っている。 | |
喜佐真スク | 川満 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 喜佐真御嶽のことであろう。「ぐすく」では喜佐真城跡と紹介されている。「宮古風土記(下巻)」でも喜佐真御嶽(きさま)として紹介されている。真種子若按司にまつわる御嶽で、喜佐真嶺に按司の亡骸が葬られたという。 | |
石スク | 与那嶺 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「琉球国由来記」にいう石城御嶽のことであろう。同書によると、与那覇村より半里程南方の森にあるとのこと。仲松弥秀が場所の確認をしているので、現在しているであろう。 | |
クバカグスク | 久場川グスク・久場嘉グスク | 嘉手苅(入江) | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では名前が出てくるが、説明文はない。「宮古島の文化財」によると入江部落西側入口にあるとのこと。「沖縄県の歴史散歩」を見ると、入江湾東側の道路沿いにあるようだ。 |
宮古島市(上野)〔グスク数2〕 | ||||||
大岳スク | 野原 | 御嶽 | 「時点」「ぐすく」 | × | 大嶽グスクの御嶽のことであろう。野原岳にある。現在は自衛隊基地がある。「宮古島の文化財」では大嶽城跡として紹介されている。「沖縄の拝所」によると、大御嶽・中御嶽・西御嶽があるとのこと。 | |
テマカスク | 汀真嘉グスク | 上野宮国(テマカ) | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「辞典」では下地にあることになっていたが表記ミスと思われる。中央部に拝所があり、周辺に石積みも残っているとのこと。 |
宮古島市(城辺)〔グスク数5〕 | ||||||
高腰スク | タカウスグスク | 比嘉 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、石積みが残っているとのこと。また、離れたところには高腰神社がある。 |
浦スク山 | 比嘉? | 御嶽 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。「辞典」記載地図を見ると浦底漁港の西側にある丘陵辺りを指しているように見える。名前から推測すると浦底御嶽か? | |
野グスク | 福北 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」「宮古島市の文化財」でいう野城遺跡であろう。「ぐすく」によると、丘陵に立地するが、石積み等の構造物はないとのこと。 | |
金志川スク | キイキャースク | 友利 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | かつて一帯は金志川村があり屋敷跡や泉があったようだ。「ぐすく」掲載の第38図では上比屋山城より北東に位置しているから、金志川の里(友利元島)のことだと思われる。 |
イスク | 砂川 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 正確な場所は不明。「辞典」以外にらしき名前が見当たらない。「辞典」掲載地図では金志川スクの東隣にあることになっている。 | |
牧の頂遺跡 | マキノツヅ | 南根間(ザラツキ嶺) | 「ぐすく」 | × | グスク名がついているわけではないが、「ぐすく」の宮古グスク分布図に記載があるので、グスクとして扱う。丘陵に立地し、土器や須恵器等が採取されるとのこと。グスク名称はないので、グスクとしては数えません。 | |
箕島遺跡 | ムイズマ | 仲原 | 「ぐすく」 | × | グスク名がついているわけではないが、「ぐすく」の宮古グスク分布図に記載があるので、グスクとして扱う。丘陵に立地し、石積みがあるとのこと。グスク名称はないので、グスクとしては数えません。 | |
上比屋山遺跡 | ウイピヤーヤマ | 砂川 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」の宮古グスク分布図では上比屋山遺跡として名前が載っているが。第38図では上比屋山城と名前が載っている。「宮古庶民史」でのみ城名で紹介しているからのようだ。「ぐすく」によると拝所が9つあるとのこと。丘陵の麓には前之屋御嶽・砂川元島遺跡もある。グスク名称はないので、グスクとしては数えません。 | |
宮古島市(伊良部)〔グスク数3〕 | ||||||
北新城 | キタシングスク | 前里添 | × | 「辞典」小字一覧に名前がある。グスクと発音しているし、アラグスクというグスク地名は沖縄によくあるので、グスク地名であろう。もっとも、訪れてみないことには分からないが、南新城と隣接している字と思われるので、別のグスクとして扱っていいものかは悩むところ。 | ||
南新城 | ミナミシングスク | 前里添 | × | 「辞典」小字一覧に名前がある。グスクと発音しているし、アラグスクというグスク地名は沖縄によくあるので、グスク地名であろう。 | ||
伊良部屋城 | イラブヤグス | 池間添 | × | 「辞典」小字一覧に名前がある。発音が「グス」で止まっていることが少し引っかかるが、城と書いてグスとまで読ませているから、グスク地名であろう。 | ||
多良間村〔グスク数3〕 | ||||||
グスクハナムチ | 水納島 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「琉球国由来記」にいう「城花持御嶽」のことであろう。地図を見る限り、島の最高地点を指し示しているように見える。「宮古風土記(下巻)」の水納御嶽の項目を見ると、神代の昔、城たけという所に天神が五穀の種子を持ち下ったので、ここに御嶽を作って祭ったという話が載っている。 | |
運グスク | 仲筋 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では運城御嶽遺跡として紹介されている。御嶽後方の丘陵がグスク本体らしい。小字運城もここであろう。「宮古風土記(下巻)」でも、運城御嶽(ウングスク)として紹介されている。島守の神が降り立った場所という。 | |
仲城 | ナカグスク | 仲筋 | × | 「辞典」小字一覧に名前が見える。グスク地名であろう。 | ||
石垣市〔グスク数13〕〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
トクスク | 平久保 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 平久保御嶽遺跡というのがあるが、同一かは不明。 | |
伝花城村跡遺跡 | 平久保 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」に名前がある。詳細は不明だが、スク名なのでグスクとして扱う。 | ||
スクヂ | 川平(底地) | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「辞典」の位置からして、底地遺跡辺りか?底地御嶽もここら辺にあるのか? | |
中スク | 川平 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 仲間森というのなら川平にある。あるいは、「沖縄の城跡」の川平城跡の項目を見ると、川平城跡と仲間森との間にナコウスクというのがあるらしいから、それのことか?なお、川平城跡は城(しろ)ではるが、グスク名称は確認できないので、本サイトではグスクとして扱いません。 | |
浜スク | 川平 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 浜崎御嶽というなら川平にあるらしい。「辞典」にある地図を見ると、川平集落の東側、海岸沿いにあるように見える。 | |
皆野スク | 大川(冨崎) | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」に皆野宿岡遺跡の名が見える。伝ガボネアジ館らしい。なお、大川ではなく新川に皆野宿という小字がある。小字を別グスクとして数えるかは一先ず保留。 | |
石スク | 石垣 | 墓地 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」に石城山遺跡の名が見える。「沖縄の拝所」によると、石垣・登野城・大川・新川発祥の聖山であるとのこと。今は採石工事により岩山の一部しか残っていないとのこと。 | |
地スク | ギシスク | 石垣? | 御嶽 | 「辞典」 | × | らしき名前を他の文献で発見できず。 |
ビロースク | 新川 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」でも紹介されている。 | |
ニラスク | 石垣 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」にニラスク遺跡の名が見える。 | |
アラスク | 平得 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」に伝アラスク村跡遺跡の名が見える。 | |
フースク | 大浜 | 御嶽 | 辞典「」「ぐすく」 | × | 「琉球国由来記」にある「大城御嶽」のことであろう。 | |
フナスク | 大浜 | 不明 | × | 「ぐすく」にフナスク貝塚の名が見えるが同一のものかは不明。 | ||
野城御嶽 | 桴海 | × | 「琉球国由来記」に名が見える。しかし、仲松弥秀は場所の確認が取れなかったようで、現存するか不明。グスクとして扱うかは保留。 | |||
竹富町〔グスク数26〕〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
イミスク | 西表島・西表(星立) | 雨乞御嶽 | 「辞典」 | × | 「ぐすく」では「辞典」記載地図表が指し示す場所に該当する遺跡を発見できず。「琉球国由来記」には干立御嶽の名が見えるが。同一のものかは不明。 | |
ゲライ慶田スク | キダスク | 西表島・西表(祖納) | 拝所・豪族の居館 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、上原遺跡内に慶来慶田城用諸屋敷跡があるのでここであろう。 |
慶田スク | 西表島・古見(美原) | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「辞典」記載地図の位置は「ぐすく」の表での与那良遺跡と場所が一致している。しかし、らしき名前は文献上発見できない。小字慶田城(ケダグスク)はこちらか?「辞典」小字一覧の大字古見に名前が見える。 | |
ミヤスク | 西表島・古見(古見) | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「あしびなぁ19号」によると、古見の近くに美与底という村があったというからこれのことだろうか?波照間島の美底御嶽とつながっているといい宗教的に深い関係があるようだ。 | |
高那グスク | 西表島・高那 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、石積みがあるとのこと。 | ||
ウシク森 | 西表島 | × | 「辞典」等の文献でグスクとして紹介しているものはないが、名前がグスクと同源の可能性が無くはないので掲載しておく。グスクとして扱うかは判断留保にしておく。森とあるが山のことである。アコウを琉球方言でウシクと言うので、そちらが語源の可能性が高そうではある。 | |||
バカレースク | 小浜島 | 単独墓 | 「辞典」 | × | 「ぐすく」では該当場所に遺跡もなければ、らしき名前もない。「神と村」によると、拝墓だという。 | |
ユドレースク | ユゥンドゥレースク | 小浜島 | 単独墓 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、小浜村の古島であるらしい。バカレーグスクとは位置も近いので関係するのであろうか。「神と村」によると、拝墓だという。夕凪を意味する琉球方言の「ようどれ」のことか?「地図」を見ると、「竹富町・与那国町の遺跡」でも紹介されているようだ。場所は島最北端の崖脇にあるようだ。 |
ウティスク山 | 小浜島 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、石積みがあるとのこと。 | ||
小スク | 小城盛 | 竹富島 | 遠見台・拝所 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」でいう小城森遺跡であろう。 |
ハナスク | 花城・高城 | 竹富島 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「琉球国由来記」にいう花城御嶽と同一であろう。「ぐすく」でいう花城村跡遺跡とも同一か。「竹富島誌 民話・民族編」掲載の地図を見ると、小字花底原(ハナソコバル)にある。 |
豊月親グスク | 竹富島 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では豊月親城遺跡として紹介されている。 | ||
トゥールングシク | 竹富島製糖原 | × | 「竹富島誌 民話・民族編」の古い原名一覧に名前が見える。小字製糖原にある畑を指すようで、豊見親城の畑という意味だそうだ。説明を見る限り人名由来になるが、原名としても古いグスク地名ということで、グスクとして一先ず扱う。 | |||
イミスク | 黒島 | 御嶽 | 「辞典」 | × | 「ぐすく」では該当場所に遺跡もなければ、らしき名前もない。仲盛御嶽とは場所が一致しているようにも見える。 | |
アロースク | アラスク | 黒島 | 不明 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 位置は一致しているように見えるので、「ぐすく」でいうアラスク遺跡であろう。 |
フカスク | 黒島 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、石積みがあるとのこと。 | ||
ウブスク | 黒島 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、石積みがある。按司の居館跡とも伝えられているが、集落跡ではないかとのこと。 | ||
ヴゥスク | 黒島 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、石積みがある。「辞典」の黒島の項目では按司の居館跡ではないかとの書かれている。 | ||
ウィスク | 新城(下地) | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では伝ウィスク村跡遺跡として名前だけ紹介されているので詳細は不明だが、グスクとして扱う。 | ||
アラスク | 新城(下地) | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では伝アラスク村跡遺跡として名前だけ紹介されているので詳細は不明だが、グスクとして扱う。 | ||
アスク | 波照間島 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 「ぐすく」には該当遺跡が見つからないが、阿底御嶽(アースクワー)が冨嘉集落にある。隣は保多盛家になる。 | |
ブスク | 波照間島 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 大底の読みがブスクのようなので、「ぐすく」でいう大底御嶽周辺遺跡のことであろう。「あしびなぁ19号」によると、英雄ウヤマシアガダナが大底御嶽を建立したという。 | |
ミスク | 波照間島 | 御嶽 | 「辞典」「ぐすく」 | × | 美底の読みがミスクのようなので、「ぐすく」でいう美底御嶽周辺遺跡のことであろう。 | |
下田原グスク | 波照間島 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」によると、石積みがある。「あしびなぁ19号」によると、遺構や出土品から15〜16世紀のグスクだそうです。伝承では、琉球王府の支配に抵抗するために、クッシィアザマグが島の有力者を集めて築城したという。 | ||
ミシュク | 波照間島 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では伝ミシュク村跡遺跡として名前だけ紹介されている。遺跡は「辞典」の波照間島の項目によると、島の村落発生の地である。「あしびなぁ19号」によると、遺跡の当方にはテラス状になった石垣遺構がみられ、内盛といい拝所になっているという。場所は北浜のすぐ近くになる。なお、拝所内には墓があり、拝所の南側約100mの所には岸葬の形態が残っているという。 | ||
マシュク | 波照間島 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では伝マシュク村跡遺跡として紹介されている。石積みがあるとのこと。場所は島の北北東の海岸近くにある。「あしびなぁ19号」によると、神々しい場所だという。遺跡内には拝所があるというが、現在では顧みられてないとのこと。 | ||
ペーミシュク | 波照間島 | 「ぐすく」 | × | 「ぐすく」では伝ペーミシュク村跡遺跡として紹介されている。石積みがあるとのこと。「あしびなぁ19号」にペミシュクブリャが冨嘉村の南東にある高台のペミシュクヤマに居城をつくって住んでいたという話が載っている。ミシュクとの関係については不明だが、ミシュクの南東にあることから南(ペー)という意味だろうか? | ||
与論町〔グスク数5(踏破数5)〕〔グスク判断保留数2〕 | ||||||
宇宿増 | ウシクノマシ | 朝戸 | 「地名考」「辞典」 | ○ | グスク地名だと思われるので紹介する。もっとも、うるま市石川にあるウスクマシはアコウを意味するウスクだという。与論町役場でもらった字図によると、ウシクマシと読むようだ。与論町小字配置図等から照らし合わせる限り、夢叶通り(と現地看板にある)の標高50m付近ら辺(与論町設置の標識番号36付近)に見える。場所は概ねここだと思われる。現地を訪れた感じでは、特にグスクらしさは感じなかった。なお、宇宿増にある番地一覧は分からなかった。 | |
宇宿棚 | ウシクダナ | 朝戸 | 「地名考」「辞典」 | ○ | グスク地名だと思われるので紹介する。与論町小字配置図等から照らし合わせる限り、ここら辺だと思われる。訪れた感じでは、単なる高台である。奄美のグスク地名ではよくあることだが、グスクらしさは全然感じない。なお、宇宿棚にある番地一覧は分からなかった。 | |
与論グスク | 朝戸 | 城郭跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。 | ||
グスク(城) | 朝戸 | 散布地 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。散布地ということ以外の詳細情報がないので詳細は不明。与論小学校から琴平神社あたりの地区名であり、字名ではないようだ。地区内に与論グスクがあるため、与論グスクと併せて1つと数えます。 | ||
北底田 | 茶花 | 「辞典」 | △ | グスク地名の可能性があるので、掲載する。与論町小字配置図等を見る限り、県道623号線沿いのうち茶花小学校周辺のように見える。役場で南底田の特徴も含めて聞いたところ、良田があった場所だという。谷地形もあるようなので、「底」はグスク地名ではなく、谷(迫)地名の可能性が高そうである。グスクとして扱うかは保留。 | ||
南底田 | 茶花 | 「辞典」 | △ | グスク地名の可能性があるので、掲載する。与論町小字配置図等を見る限り、県道623号線沿いのうち与論町中央公民館周辺のように見える。役場で北底田の特徴も含めて聞いたところ、良田があった場所だという。谷地形もあるようなので、「底」はグスク地名ではなく、谷(迫)地名の可能性が高そうである。グスクとして扱うかは保留。 | ||
上(ウワィ)グスク | 麦屋 | 集落跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「与論町誌」によると、先住民集落の城跡だという。 | ||
ノースク | 麦屋赤崎 | ○ | 「与論町誌」によると、アマンジョー北西の丘で、遠祖が居を構えていたのではとのこと。与論島民族村の主人(?)によると、昔は巨石の列があったという。伝承では、ノースク→ウワィグスク→与論グスクと石垣が運ばれていったという。今は造成等により削られたが、かつては小高い丘であったとのこと。訪れた感じでは、グスクからの眺望が良い場所にあり、アマンジョーからの位置といい、歴史と伝承の古さを感じる場所であった。なお、場所はここになる。 | |||
和泊町〔グスク数18(踏破数4:確認数2)〕〔グスク判断保留数2〕 | ||||||
ヤマトグスク | 畦布字名波武田 | 不明 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「和泊町誌」によると、平家の落武者がここに居城を定めたので、ヤマトグスクと呼ぶようになったとの伝説があるとのこと。湾門浜南部に広がる崖上がグスクであり、崖下には墓地がある。 | ||
城前 | グスクメー・グスクメ | 畦布 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「和泊町誌」によると、源為朝が滞在した場所だという。「知名町誌」から「奄美郷土読本」を孫引きすると、城前の大和城は義本王の居城という話が載っている。ヤマトグスクと同一の場所を指す可能性が高いが、一先ず別グスクとして扱う。 | |
世之主グスク | 内城字上城 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「地名考」小字名一覧に上城という地名が見えるが、グスク一帯を指すものと思われる。「論文」によると、「ウイグスク」と読む。「和泊町誌」・「辞典」によると、「ウイスク」と読む。このグスクを含めて沖永良部のグスクは、果たして昔からグスクと呼ばれていたのか疑問なしではないが、世之主グスクは小字上城にあるし、訪れた感想も沖縄にあるグスクに近い感じがしたので、グスクとして扱って問題ないと思われる。 | |
直(ノーシ)グスク | ナオシグスク | 内城字直城 | 城郭跡 | 「論文」「辞典」 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「和泊町誌」によると、世之主の幼主が住んだ場所だという。見た目は出城みたいな感じである。「和泊町内文化財分布調査報告書」によると、丘陵の頂上部には石敷きの跡や防空壕のようなものがあったとのことであるが、現在は鬱蒼とした竹林に覆われて詳細は不明だという。第二次世界大戦中に守備隊により、防空壕が築かれたため、石敷きの跡は破壊されたという。また、世之主が妻子と自刃し、埋葬された場所で「ウファチジ」と呼ばれたという。なお、ウファとは墓で、チジとは築山・高山・丘・小高い山の意だという。 |
出(イジ)グスク | イジスク | 内城字出城 | 散布地 | 「地名考」「辞典」 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。独立丘として残っているが、大分地形が削られているように見える。「和泊町内文化財分布調査報告書」によると、中世の館跡の伝承があるという。 |
内城 | ウチグスク | 内城 | ○ | 「沖永良部地名考」を見ると、大字内城のうち、世之主神社の東、城ケ丘中学校の北側にある集落を内城と呼んでいたようだ。現在も呼ばれているかは分からないが、グスクとして数える。なお、場所はここになる。 | ||
大城 | 大城 | ○ | 小字としてはないが、大字(集落名)として大城があるので、一先ず掲載する。「和泊町誌」によると、「フーグスク」とも呼ばれているようだ。もっとも、同書の別の頁では大字大城の読みは「フースク」と紹介されている。「雑記集成(3)」によると、内城に対する外城の地位にあったとのこと。「沖永良部島地名考」によると、語源は「川底(ホースク)」ではないかといい、集落に溝川という沖永良部島の中では大きい川があることを理由として述べている。確かに、グスクに関係する小字も名称も大字大城内に見当たらないことを考えると、説得力のある説ではあるが、「大城」という表記がされ、フーグスクと呼ばれている以上、当サイトではグスクとして扱います。 | |||
川底 | ホオシク | 喜美留 | 「辞典」 | × | 「和泊町誌」でも「ホーシク」と読むので、グスク地名の可能性を考慮し、掲載しておく。グスクとして扱うかは保留。ひょっとしたら、上記大城の欄で説明している川底と同じ語源かもしれない。 | |
後蘭孫八グスク | 後蘭前田川 | 不明 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「和泊町誌」で、「グラル孫八が積み上げたるグスク〜」と言った古謡が紹介されているので、一先ず昔からグスクとは呼ばれているようだ。もっとも、データベースでは城跡という紹介で、グスクとは表現していない。 | ||
城窪 | フチクブ | 瀬名 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」によると、「ジヨウクボ」と読む。「和泊町誌」でも、「フチクブ」と読んでいる。「地名考」では大字は瀬石とあるが、誤記であろうか? | |
西玉城 | ニシニャト | 玉城 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」によると、「ニシタマシロ」と読む。「和泊町誌」によると、「ニシニャートウ」と読む。「雑記集成(3)」によると、西稲戸・北稲戸の小字名が村落名に昇格したものと推定されるとのこと。 | |
東玉城 | ヒガシニュアト | 玉城 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」によると、「ヒガシタマシカ」と読む。 | |
玉城川 | イニャトゴ | 玉城 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」によると、「タマシロゴウ」と読む。「和泊町誌」によると、「ニャートウゴウ」と読む。なお、同書によると、玉城は「イニヤト」と読むとのこと。 | |
名川助 | ナゴスケ | 出花 | 「辞典」 | × | 「和泊町誌」でも「ナゴスケ」と読むので、グスク地名の可能性を考慮し、掲載しておく。原型はナーグスク・ナカグスク・ミヤグスクあたりと考えられなくもない。グスクとして扱うかは保留。 | |
中城 | ナカグスク・ナカスク | 手々知名 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | ||
ベシ城 | ベシジョウ・ビンジョー | 手々知名 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「雑記集成(9)」によると、マタ状地形だという。 | |
グスク | 手々知名 | 墓 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財データベース」にはない。「神と村」で知名町の上手にグスクがあると書かれているが、知名町に現在上手という地名は見当たらないので、上手々知名地区のことか? | ||
城田原 | グスクダバル | 根折 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | ||
根皿原 | 根折字根皿原 | 城郭跡 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。以前はグスクとして紹介されていた気もするが、現在は根皿原という単なる城郭跡という紹介になっています。グスクとしては扱いませんが、参考までに載せておきます。 | ||
城原 | ジョウバル | 和 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」・「辞典」によると、「ジョウバル」と読む。「辞典」では平窪城原と記載されているが、平窪と城原の間にスペースを入れ忘れただけのように思える。 | |
城当 | グスクド・グスント | 和泊 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「和泊町誌」によると、「グスクドー」と読む。 | |
知名町〔グスク数12(踏破数2:確認数1)〕 | ||||||
城田 | グスクダ | 余多 | 「地名考」「辞典」 | × | ||
上城跡 | 上城 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。現在は「カミシロ」と呼んでいるようだが、「知名町誌」を見ると、かつては「カミグスク」と呼んでいたようだ。 | |||
花城洞穴 | 上平川字花城 | その他 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。石灰岩洞穴のようだが、「神と村」でグスクとして紹介されている。同書では墓として紹介されている。訪れたところ、畑の中にフェンスで囲まれた森があった。残念ながら入ることは出来なかった。 | ||
花城 | ハナスク | 上平川 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」でグスク関連遺跡として上平川における花城(ハナグスク)というのが紹介されている。ハナグスク按司居住跡であり、石垣の遺構が残っているようだ。同じ字内にハナグスクゴウという泉もあるようだ。上記花城洞穴と同じものを指している可能性もあるが、花城洞穴は按司の居住跡には見えなかったので、別として扱う。「知名町誌」によると、ヒヨウグスク按司の居住跡という話が載っている。同一按司を指すのか、別按司だが同じ居城地だったのかは不明。なお、「和泊町誌」によると、かつては城塞らしい石櫓があったが、耕地整理で今では跡形もないという。 | |
川城 | ホウグスク | 黒貫 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」によると、黒貫集落の始まりのようで、風葬跡があるようだ。 | |
重城 | シギジョウ | 下城 | 「地名考」「辞典」 | × | 元はウムグスクとでも読むのだろうか。シゲグスク・シギグスクと言ったグスク名は管理人が把握している限り他に例がない。 | |
イケグスク | 下城 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク関連遺跡として紹介されている。石垣のようだ。 | ||
ウーグスク | 下城 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク関連遺跡として紹介されている。呼称のみとあるので、字名ではないが、そう呼ぶ場所があるということだろうか? | ||
グスクヌチ | 下城 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク関連遺跡として紹介されている。また、「フーキを祀、木」とある。木のことを指すのだろうか? | ||
西目国内兵佐居住地跡 | 下城字先間 | 城郭跡 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。以前はグスクとして紹介されていた気もするが、現在は左記のような名前になっています。大字下城にあるが、小字は先間になることもあり、グスクとしては扱いません。参考までに載せておきます。 | ||
新城 | 新城 | ○ | 大字名を見るとグスク名であるが、戦後出来た字名であるので、グスクとしては扱いません。参考までに掲載する。なお、wikipediaを見ると、上平川・下平川から分離とあるが、立地的にも小字名からも上城・下城からの分離のような気がする。 | |||
グスクアー | 知名 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク関連遺跡として紹介されている。石垣のある畑、墓跡のようで、王の城跡であるという。 | ||
城籠島 | ジョウゴモド | 正名 | 「地名考」「辞典」 | × | ||
城根 | 正名 | 「地名考」「辞典」 | × | 読みは「辞典」によると、シラネだが、元はグスクネではないかと思われる。沖縄県宜野湾市にグスクンニーというのならある。 | ||
徳之島町〔グスク数33(踏破数10:確認数4)〕〔グスク判断保留数2〕 | ||||||
大城跡 | 亀津 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。下記大城跨の転写ミスとも一見思われるのだが、大城跨の読みはウグシクで、大城跡とは別にウグシクとして紹介されているから、別グスクなのだろうか。しかし、他の文献では名前を見かけない。 | ||
大城跨 | 大城・ウグシク | 亀津 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「地名考」「辞典」では大城跨と紹介され、「論文」ではグスク小字地名としてウグシクとの名前で紹介されている。「辞典」によると、「オオシロマタ」と読む。「雑記集成(3)」によると、按司の居城であり、降雨祈願やグジク踊りをする場でもあったという。また、人骨もあったという。「雑記集成(11)」によると、按司とノロ神が同居する聖地だとのこと。 | |
アンゴグシク | 亀津 | 「論文」 | △ | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。現在は文化会館や体育センターが建つ場所にかつてあった軍艦石のことで、現地の看板によると別名アングシクだという。七日寝太郎の伝説があり、聖なる山として崇められていたという。 | ||
フーグスク | 徳和瀬 | ○ | 文献は失念してしまったが、白嶺神社はフーグスクと呼ばれるようだ。古くからティラ山とも呼ばれており聖地であったとのこと。 | |||
山城 | ヤァグシク | 徳和瀬 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「トレジャーアイランド@徳之島」でも紹介されている。「辞典」によると、「ヤマグシク」と読む。「雑記集成(3)」によると、諸田の山城赤畑に接しているが、特に関連性は見いだせないという。また、居城・人骨・祝女・積石・争乱・聖地いずれの項目にも該当しないようだ。もっとも、「雑記集成(11)」によると、雀榕の根にイビガナシ(自然石)が祀られていて、神社以前の聖地を物語ると書かれている。亀徳にある殿内跡と似たような聖地となっている。 | |
山城赤畑 | 山城又畑 | 諸田 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「地名考」のみ山城又畑とあるが、「雑記集成(3)」を見ても山城赤畑とあるから後者が正しいと思われる。「雑記集成(3)」を見ると、居城・人骨・祝女・積石・争乱・聖地いずれの項目にも該当しないようだ。もっとも、「雑記集成(11)」によると、近くにはウチノ山(洞穴墓)・トネ屋敷・殿内・石器出土と、聖地にふさわしいと書かれている。 | |
シロマヤシキ | 諸田 | 「辞典」 | × | グスク地名ではないが、元は城間と漢字表記されたのを後にシロマと読んだ可能性があるので、参考までに掲載しておく。グスクとして扱うかは保留。 もっとも、「雑記集成(2)」を見ると、同書で引用されている17世紀の文献では、「白間」の文字が諸田に見える。 | ||
神之嶺(カンニャ)グスク | ウシシギャグスク・カンニングシク | 神之嶺アギマス | 城郭跡 | 「論文」 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「論文」によると、ウシシギヤという武芸の達人を祀った祠があるという。なお、同文のグスク小字地名でもカンニングシクという地名が紹介されている。「雑記集成(3)」を見ると、人骨があり、聖地でもあるようだ。現地の看板によると、カンニンウシシギャデラと言い、カンニンウシシギャの館跡に祠を建てて集落の守護神として祀り始めたのが最初だという。また、別名グシコと言うららしい。 |
フーグスク | 井之川宝島区 | 「地名考」「辞典」 | △ | 集落の郵便局南方にある丘をフーグスクという。「トレジャーアイランド@徳之島」及び「神と村」で紹介されている。後者によると、井之川伊保の住民が拝むグスクであるという。「雑記集成(3)」によると、小字大城にあるという。「辞典」では読みが「オシロ」となっている。「雑記集成(2)」によると、グスクに隣接する洞穴には人骨があるという。「雑記集成(3)」を見ると、居城・聖地でもあるようだ。 | ||
グスク | グシク | 井之川佐渡区 | 「論文」 | ○ | 「神と村」で紹介されている。同書によると、井之川佐渡の住民が拝むグスクであるという。「雑記集成(2)」掲載地図を見ると、俗称地名としてのグシクが佐渡にあることから、これだろうか?「論文」でもグシクという名前が紹介されているから同じか?「雑記集成(2)」によると、現在八幡神社・慰霊碑・公民館が建つ場所がグスクだという。また、近辺の洞穴には人骨があったという。 | |
トネンスク | 井之川佐渡区 | △ | 「神と村」掲載地図に名が見えるが、その他井之川の3つのグスクと違って説明はない。一先ずグスクとして扱っておく。他の文献でも名前を見ない。ウイニグシクとも場所は異なるように見える。場所はここら辺のようだ。訪れてみたところ、特にグスクらしさは感じない。 | |||
アガリグスク | アガリグシク | 井之川宝島区下西間原 | 「論文」 | ○ | 「雑記集成(2)」によると、俗称名としてアガリグシクが字下西間原にあるようだ。「トレジャーアイランド@徳之島」で及び「神と村」でも紹介されている。「論文」のグスク小字地名にも名前が見える。「神と村」によると、井之川宝島地区の住民が拝むグスクであるという。「雑記集成(2)」によると、集落西方の山手、海辺から約500mの地点、標高40〜50mの高台にあるとのこと。また、グスクの最高地点には石垣があり、北方の宝川の川岸洞穴には人骨があるという。「雑記集成(3)」を見ると、聖地であるようだ。現在、グスク麓には蛭子神社と墓地がある。現地の看板によると、奥の洞穴にはウキボウジガナシが祀られているという。 | |
ウイニグシク | ウィンニグシク | 井之川 | 「論文」 | △ | 「雑記集成(2)」によると、俗称地名のようだ。小字は同書掲載地図を見る限り、寺敷にある。寺屋敷跡隣の岩の中には人骨があったという。「雑記集成(3)」を見ると、聖地でもあるようだ。「雑記集成(11)」によると、台地状はノロの祭場であったとされるとのこと。かつてこの地には安住寺という寺があった。 | |
杉川 | 井之川 | 「辞典」 | × | 「スギカワ」と読む。元はグスクガーだったりして、グスク地名の可能性が無いわけでもないので紹介する。グスクとして扱うかは保留。 | ||
グシク | グシコ | 下久志 | 「論文」 | ○ | グスク小字地名として紹介されている。「雑記集成(3)」によると、現在は水神さんと呼ぶ神社が俗にグシコという。小字は上里になる。また、居城跡、按司屋敷ではなく、ノロの祭場であったという。「南島の地名第2集」を見ると、グシクとグスコはそれぞれ別グスクのようにも見えるが、現段階では一つとして扱っておく。なお、現地で聞いたところによると、本来の神社の位置は現在の場所より少し南西だという(一応道が存在し、現在もご神体があるらしい)。 | |
ウシクド | 尾母 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。「雑記集成(2)」によると、俗称地名だそうで小字名ではなさそうだ。また、洞穴墓があり人骨があるという。ウシクドはフゥシクドの転訛だという。「雑記集成(3)」によると、聖地でもあるようだ。尾母にある溝川神社の説明書きを見る限り、集落南西の大谷山南方にあるようだ。場所は概ねここら辺になると思う。 | ||
マサグシクバテ | マザグシクバテ | 尾母 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。これも上記ウシクドと同様に俗称地名だそうで、人骨があるという。名前の由来は集落の真下(マーシャ)にあるからだという。小字は加佐具になる。「雑記集成(3)」によると、聖地でもあるようだ。「雑記集成(11)」ではマザグシクバテという名前になっている。同書によると、竹や木を切ると祟りがあると恐れられているとのこと。 | |
アジヤシキ | 尾母 | × | グスク名称はないが、「雑記集成(11)」のグスク関係一覧表に掲載されているので、参考までに掲載しておく。グスクとしては扱いません。人骨はあるようだが、聖地ではないようだ。 | |||
殿内跡 | 秋津神社・佐安元(サームト)屋敷 | 亀徳里 | 城郭跡 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。グスク名は付いていないのでグスクとしては扱いませんが、城郭跡なので参考までに紹介しておく。「論文」によると、イビガナシをウシク(雀榕)の根に祀って聖地とし、やがて祠を建てて信仰の場としたとのこと。「雑記集成(3)」を見ると、居城・人骨・祝女・積石・争乱・聖地いずれの項目にも該当するようだ。「雑記集成(11)」によると、薩琉戦争時の城跡だとのこと。 | |
城 | 母間 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「辞典」によると、「シロ」と読む。「雑記集成(2)」掲載地図にも名前が見える。同書によると、池間公園周辺が城となるようだ。また、人骨も聖地もないとのこと。「雑記集成(11)」によると、琉球派遣の役人居住跡かとのこと。現地の看板を見る限り、池間公民館を城(グシク)と呼ぶようだ。ただし、母間総字絵図を見る限り、若干位置が違うようにも見える。 | ||
宮城 | 母間 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「辞典」によると、「ミヤグスク」と読む。「雑記集成(2)」掲載地図にも名前が見える。「雑記集成(11)」によると、集落と井之川岳の中間にあり、ノロの祭場と結びついた地点ではとのこと。 | ||
ゴソク田 | ゴンソク田 | 母間 | 「地名考」「辞典」 | × | 「地名考」のゴンソク田とは同一と思われる。「雑記集成(2)」掲載地図にもゴソク田の名前が見える。グスク地名で間違いないと思うが、当欄以下字母間にあるグスクは「雑記集成(3)」グシク関係一覧表には名前が見えない。 | |
コソグ田野口 | 母間 | × | 「雑記集成(2)」掲載地図に名前が見える。ゴソクではなくコソグなのは、それで正しいのか誤植なのかは判断しかねる。 | |||
ゴソク田配田 | ゴソクタハイタ | 母間 | 「辞典」 | × | グスク地名であろう。「雑記集成(2)」掲載地図にも名前が見える。 | |
宮グスク(山) | スリバチヤマ | 花徳宮城 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。山頂部には菅原神社がある。「天城町誌」によると、花徳按司の居城であったらしい。「地名考」「辞典」に宮城という地名が見える。「論文」によると、大城按司との勢力争いの伝承がある。「雑記集成(11)」によると、海に突出した60mの台地で、周囲は断崖で視界が良いとのこと。訪れたところ、頂上は平坦になっており、眺めは良さそうであった。 |
上城 | 花徳 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「辞典」によると、「カミグスク」と読む。「雑記集成(2)」によると、ウィグシク・ウエグシクと読む。「雑記集成(3)」を見ると、特に人骨や聖地に纏わるものはなさそうである。場所は山手に位置すると書かれている。「雑記集成(11)」によると、下方に稲積蔵(ノロ聖地)があるとのこと。 | ||
城畠 | 花徳 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「辞典」によると、「シロバタ」と読む。「雑記集成(2)」によると、「グスクバテ・ウスクバテ」と読む。同書によると、花徳集落東方の最も高い台地上にあるとのこと。発掘の結果縄文晩期から弥生初期にかけて18戸以上の古代人が暮らした高地性集落であったという。かつてはゲートボール場があったらしいが、現在は畑になっている。「雑記集成(3)」では、居城とされている。「雑記集成(11)」によると、古くは里(現在は上花徳)と呼んでいたとのこと。訪れたところ、眺望は抜群の場所であった。 | ||
ナガグスク | 中城・ナァグシク殿内 | 花徳 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。「雑記集成(3)」によると、中城殿内(ナカグシクトヌチ)と呼ぶ俗称地名があるとのこと。同書によると、宮城と城畠の間にあるから中城と言い、村落内にあるとのこと。「雑記集成(11)」によると、現在は民家が建っているとのこと。 | |
城ノ大 | 城ノ又 | 花徳 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | この項目については、疑義はあるものの「地名考」表記に従い「城ノ大」とする。「雑記集成(2)」によると、城ノ大と書いて「シルマタ」と読むだようだ。そのためか「論文」では「城ノ又」と表記されている。「辞典」の「城ノ丈」は誤植か?「雑記集成(11)」では「雑記集成(2)」と同じ著者にもかかわらず、城ノ又と表記している。「雑記集成(3)」によると、城の岳(グスクヌテェ)に由来する小字名ではないかとのこと。また、山手に位置すると書かれている。「雑記集成(11)」によると、近くに洞穴墓所があり、古代集落との関わりがありそうとのこと。 | |
志木又 | 志キノ又 | 花徳 | 「地名考」「辞典」 | × | 「地名考」では志キノ又とある。グスクマタと同源か?グスクとして扱うかは保留。 | |
大城 | 轟木 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」では大字森木とあるが、字名が変わったのだろうか。「辞典」によると、「オシロ」と読む。「雑記集成(3)」によると、「フゥグシク」と読む。同書によると、集落の西端、天城町の分水嶺から東に広がる一帯を指すという。頂上には石垣があり、城跡だという。聖地でもある。人骨は出土しないという。すぐ隣の天城町天城には大城山があるが、小字大城はこの山に関係由来する可能性があるという。「雑記集成(11)」によると、按司の狩伝承があるとのこと。なお、このグスクとは別の場所の可能性があるが、トレジャーアイランド管理人に聞いたところ、大城山の東方、三方通岳の南東にある標高442mの山一帯をフーグスクと言う人もいるらしい。天城町松原の大城と場所が被るようにも思えるが、雑記集成では別のグスクとして説明しているように見えるので、別グスクとして扱う。 | ||
城田 | 轟木 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」では大字森木とあるが、字名が変わったのだろうか。「辞典」によると、「グシクダ」と読む。「雑記集成(3)」によると、県道花徳〜天城線の沿線から南側に分布する小字名だという。また、特に人骨は発見されず、伝承もないという。近くに水神の拝所があるとのこと。 | ||
山城 | 山 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「辞典」によると、「ヤマグシク」と読む。「雑記集成(3)」によると、居城に結びつく遺跡も伝承も確認できないという。また、聖地でもないようだ。「雑記集成(11)」によると、天城岳の山麓より山手側にあるとのことだが、前記(3)によると、花徳から進んで山入口の山手に位置するという。ひょっとしたら上記轟木大城の項目で紹介した標高442mの山一帯と場所が一致するかもしれない。 | ||
グシコドロ | 山 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。「地名考」「辞典」ではこれに該当すると思われる小字地名を発見できず。 | ||
グシクバル | 金見 | × | 「雑記集成(11)」でグシク地名として紹介されている。俗称のようだ。海岸から200mの地点にあり、標高100mほどの山岳をなすとのこと。ただし、国土地理院発行の地形図を見る限り、そのような山岳は見当たらない。 | |||
大和城 | ヤトウグスク・ヤマトグスク | 手々 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「論文」によると、石垣、按司墓、崖下墓がある。別名ヤトウグスクといい、その名前は大八目(フウハチミー)が訛ったものとも言われる。しかし、グスクは北方を向いていることもあり、本土を意識した意味でヤマトグスクと呼ばれるとの解釈でいいように思われる。「神と村」で紹介されているグスクもこれか?同書によると、岩塊群をなし、その下には人骨が散見され、現在の村の共同墓はその近くにあるという。「雑記集成(11)」を見ると、聖地であるようだ。グスク南方は現在畑になっている。 |
城田 | グシクダ | 手々 | 「論文」「辞典」 | × | 「地名考」ではこれに該当すると思われる小字地名を発見できず。「雑記集成(3)」を見ると、大和城に接した場所にあるように見えるが、「南島の地名第2集」所収の手々総字図を見ると、大和城から少し離れた北東にある。集落と大和城の間にある川周辺であろうか?「雑記集成(11)」を見ると、聖地であるようだ。 | |
カンギョグシク | 神川城 | 手々 | ○ | 「南島の地名第2集」によると、俗称地名としてあるとのこと。該当記事は「雑記集成」の著者と同じ徳富重成が書いているが、「雑記集成」には該当名がなかったように思われる。現地の看板によると、手々豊穀神社がある森をカンギョウグスクというとのこと。 | ||
天城 | 手々 | × | 天城町と徳之島町との境付近に天城岳という標高533mの山がある。一見、グスク名だが、かつては雨気岳と呼ばれていたのが、改称されたようなので、グスクとしては扱いません。参考までに掲載しておく。 | |||
天城町〔グスク数32(踏破数14:確認数2)〕〔グスク判断保留数2〕 | ||||||
グシクドウ | 城当・城当リ・グシクントー | 与名間 | 「論文」 | ○ | 「天城町誌」に天城町のグシク地名として紹介されている。「論文」でグスク小字地名として紹介されている城当と同じであろう。「雑記集成(3)&(11)」グシク関係一覧表にも城当という名前が見える。「地名考」では城当リという小字がある。「辞典」ではらしき地名が見つからない。「天城町報告書」によると、こことのこと。同書では城当(グシクントー)と読む。訪れたところ何の変哲もない畑である。形状は囲まれた場所にあり、ならされたからか平地となっている。小字名と場所の特徴は一致すると思われる。 | |
ウスクマタ | ウスクマス | 与名間 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「地名考」「辞典」に名前が見える。「論文」でグスク小字地名として紹介されているウスクマスも同じであろう。「天城町報告書」によると、こことのこと。マタとはあるが、いかにも谷地形という感じは受けなかった。ただし、県道側には川が流れていたから、かつては分かりやすく谷地形だった可能性がある。 | |
大和城 | ヤートグスク | 与名間 | 「地名考」「論文」 | ○ | 「辞典」では該当地名を見つけられない。「雑記集成(11)」でも紹介されている。同書によると、東シナ海に面し、天城町最北の地に位置、手々の大和城とともに本土系かとのこと。「天城町報告書」によると、こことのこと。訪れたところ、単なる畑と森である。はっきりとは見つからなかったが、近くに川があるし、高台で眺めは良いので、何かしらの遺構はあったのかもしれない。ただし、今となっては全くその面影を感じさせない。 | |
城 | グシク | 与名間 | 「地名考」「論文」 | ○ | 「辞典」では該当地名を見つけられない。「雑記集成(3)」によると、現在は屋敷となっている。周囲は石垣が積まれ、庭には樹齢四百年を超す樹がある。近くには、氏神神社、湧泉があり、与名間集落発祥の地だという。人骨の伝承はないとのこと。「雑記集成(11)」によると、ノロの遺品伝承がある。場所はここら辺になる。「天城町報告書」によると、小学校の南側にシューグシクとグシクと呼ばれる場所がある。ユイの館で聞いたところ、いずれも屋敷のようだ。同書所収の地図を見る限り、いずれも小字城内にあるように見えるので、グスクとしては1つとして数える。訪れたところ、確かに屋敷があり、小学校側は高台となっていた。近くにはグスクイジュンと呼ばれる井戸もあるようだ。なお、両屋敷の人の苗字は分からないが、周辺には城姓の家が多いようだ。 | |
ウフグスク | フウグスク・フウグスクヤマ | 松原字大城山 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「地名考」「辞典」には大城という地名が見える。「論文」によると、按司の城という伝承があり、石垣の遺構がある。また、近くにはグスク墓がある。「雑記集成(3)」を見ると、人骨はなく、聖地でもないようだ。もっとも、「雑記集成(11)」を見ると、人骨・ノロ・聖地全てに該当するように書かれている。同書によると、花徳の宮城按司・島尻按司との争乱伝承があるとのこと。現地の看板によると、琉球王朝時代にはノロの祭り場になったと言われるとのこと。 |
城田 | 松原 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ? | 「論文」でもグスク小字地名として紹介されている。「雑記集成(3)&(11)」グシク関係一覧表にも名前が見える。ただし、「天城町報告書」では見つからない。下記で紹介するグシクタゴー周辺の地名であろうか。 | ||
ウシクントフ | ウシコント・ウシコントウ | 松原 | 「地名考」「辞典」 | ○ | 「地名考」では「ウシコント」とあるが、同一であろう。「雑記集成(3)&(11)」「南島の地名第2集」にあるグシクントゥ(城当)も同一か?「天城町報告書」所収の地図を見ると、グシクドロ周辺から川向こうまでの地名のようだ。場所はここら辺。 | |
松当城 | 松原 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「論文」で紹介されている松之当城(マツンドウグスク)も同一であろう。同文によると、按司が高じ半ばで病没したという。「雑記集成(3)」によると、按司の居城であったが、現在は開発され低地になったという。現在は人家(名字は城だそうだ)がある。同書によると、人骨があり、聖地でもあるようだ。祭り当城の縁語かと推測されている。訪れてみたところ、少しばかり低地になった場所に畑と家があったのみであった。うち1軒の主人(昭和20年生まれと言っていた。)と話したところ、幼い頃からマチントウグスクと呼んでいたが、何故そう呼ぶのかは分からないとのこと。今となってはとても居城があったとは信じがたい。 | ||
城配田 | グシクフェジャ | 松原 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「雑記集成(3)&(11)」グシク関係一覧表にも名前が見える。「天城町報告書」所収の地図を見ると、たあしら川の東側にあるようだ。整地されて単なるサトウキビ畑になったせいか、今となってはグスクらしい地形も遺構もあるようには見えない。もっとも、道を隔てた北側の小字は寺原(テラハール)ということから、周辺が墓地ないし聖地であったことを示唆しているように思う。場所はここ。 | |
グシクドロ | 松原 | ○ | 「天城町報告書」によると、港川に隣接した墓地をグシクドロと呼ぶとのこと。集落内で一番古い墓地だという。墓地には西家と城家のモーヤ墓が2基ある。小字ウシクントフ内にあるが、別グスクとして数えておく。 | |||
グシクタゴー | 松原 | ○ | ゆいの館に掲げられている天城町の名所旧跡という地図を見ると、宝土地区の東側にある港川へ注ぐ小川をグシクタゴーと言うようだ。しかし、「天城町報告書」では小字城田は見つからない。上記城田と場所が被る可能性があるが、ひとまず別グスクとして数える。訪れてみたところ、確かに小川があった。橋のすぐ上流の林から流れているのだろうか。場所はここ。 | |||
グスク | 松原 | ○ | 「天城町報告書」やゆいの館で聞いたところ。集落の高台にあたるここら辺の地区をグスクと呼ぶらしい。訪れたところ、確かにグスクらしさはあるように思える。 | |||
シルキノマタ | 松原 | 「地名考」「辞典」 | × | 元はグスクマタで「城又」だった可能性が無くはないので、参考までに掲載しておく。現段階ではグスクとして扱いません。場所はここ周辺。あまりグスクっぽさはないから違うかも。 | ||
沖グシク | 岡前 | × | 「天城町誌」に天城町のグシク地名として紹介されている。小字ではないため、「地名考」「辞典」小字名一覧には名前が見えない。「天城町報告書」によると、現在西郷公園として整備されている場所が沖城(ウキグスク)と呼ばれるとのこと。川を隔ててオガミヤマと対峙する場所にある。場所はここ。 | |||
フーグシク | 岡前 | × | 「天城町誌」に天城町のグシク地名として紹介されている。「地名考」「辞典」小字名一覧には名前が見えない。そう呼ばれる場所があるということだろうか?「天城町報告書」にも掲載がない。詳細は不明だが、グスクとして数える。 | |||
城配田 | 岡前 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「地名考」では城配田一二とある。「天城町報告書」では「シロフェージェ」と読んでいる。場所はここら辺。 | ||
鍬上 | 岡前 | 「辞典」 | × | 読みは不明だが、鍬は「スキ」とも読むので、グスク地名の可能性を考慮して紹介する。もっとも、「天城町報告書」を見ると、「クワージョ」とある。グスクとして扱うかは保留。 | ||
(大和)ヤマトグスク | グンジンヤマデラ・大和城山 | 天城 | 城郭跡 | 「論文」 | △ | 天城集落から見て東にある標高251mの山になる。同名のグスクが与名間にもある。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「論文」では小字上名道になっているが、複数の小字にまたがるようである。同文によると、山頂にはご神体として石が祀られているという。また、中腹には山寺と称する祠があるという。玉グスクの見張所という伝承も残っているようだ。「雑記集成(3)」によると、人骨の分布は認められないという。しかし、聖地ではあるようだ。「雑記集成(11)」によると、本土系の按司であるとの伝承があるという。訪れたところ、東側の山裾がたいぶ切り崩されつつあるように思う。ゆいの館で聞いたところ、山寺などは西側から登れるとのこと。東側からも登れるかもしれないが、どこかの会社の敷地に見えたので、進入はしていません。 |
玉グスク | 天城字真瀬名 | 城郭跡 | 「論文」 | × | 天城集落の南端、真瀬名川に接した小丘になる。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「論文」によると、沖縄の人が篭もった城という伝承があり、周辺の岸墓は彼らの人骨で、かつて戦争が何回もあったという。拝所があった可能性はあるが、現在は少なくとも認められないとのこと。「雑記集成(3)」によると、琉球王朝から派遣されたインミヌキャの居城であり、大和城にいる本土系の按司(阿布木名坊主)との争いが絶えなかったという。「雑記集成(11)」によると、大和城の出城に変わったともいうとのこと。訪れたところ、単なる畑や牧場となっている。周囲の眺めは良いところである。 | |
南山城 | 天城 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「地名考」では字阿布木名(天城の旧称)の項目にある。「雑記集成(3)」によると、大和城山の南方に位置しているからこの名前が付いたと考えられるとのこと。また、城跡や聖地であった伝承はないとのこと。素直に考えると、現在嶽山と呼ばれているここのようにも思える。しかし、「天城町報告書」によると、ここら辺とのこと。南山城(ミナミヤマシロ)の東隣の小字が西山城(ニシヤマシロ)となっていることもあり、若干の違和感はある。ゆいの館で聞いたところ。地元住民の記憶では上記場所だという。 | ||
西山城 | 西城山一二 | 天城 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「地名考」では西城山一二という名称だが、同じグスクであろう。「雑記集成(3)」によると、大和城山の西方に位置しているからこの名前が付いたと考えられるとのこと。また、城跡や聖地であった伝承はないとのこと。もっとも、北側を流れるヒヨドリ川のワタシビ地点には水神の聖地があるという。ここも方向的には若干北西となるが、地形図を見る限り、ここのようにも思える。しかし、南山城同様「天城町報告書」によると、ここら辺とのこと。 | |
納城 | 天城 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「地名考」では字阿布木名の項目にある。「天城町報告書」では名前を見ない。 | ||
グシク | 天城 | × | 「雑記集成(3)」で小字神里にある俗称名として紹介されている。大和城山と玉グシクの中間に位置する。現在は耕地となっているが、かつては石垣があったという。近くには四つの泉や小川が流れ、村落を一望できる場所であることから、同書では村落発祥の地である可能性を示唆している。「雑記集成(11)」によると、かつては石垣積みであったとのこと。「天城町報告書」によると、荒らしてはいけない大事な場所として言い伝えられているという。グスクの西側にある屋敷跡は琉球国王に召しかけられた神里姫の屋敷跡だという。場所はここになる。 | |||
アマングシク | 天城 | × | 「天城町誌」に天城町のグシク地名として紹介されている。「地名考」小字名一覧には名前が見えない。大字天城とは別にそう呼ばれる場所があるということだろうか?基本的に南西諸島におけるアマ(ン)グスクは眺望の良い山や丘であることが多いので、ヤマトグスク以外の別の山だろうか?「天城町報告書」にも名前を見ない。詳細は不明だが、グスクとして数える。 | |||
グスク | 兼久 | × | 「神と村」で紹介されている。段丘崖の納骨洞穴で村の拝所となっているとのこと。「天城町報告書」にも記載がなく、場所は分からないが、拝所だとすると公民館周辺であろうか。 | |||
ウィマグシク | 大津川 | ○ | 「天城町報告書」によると、大津川集落シュンバイにある文栄家屋敷を集落ではウィマグシクと呼んでいるとのこと。2017年現在現地で聞いたときも地元民はそのように認識していた。場所は少し高台にある家である。地図だとここになる。 | |||
ウーグシク | 大津川 | ○ | 「天城町報告書」所収の地図を見ると、集落の北東部のここら辺をウーグシクと呼ぶようだ。漢字にすると大城であろうか。人家の東側ら辺になるが、森があるのみであった。地元の人に聞いてもウーグシクとは言うそうだが、由来は分からないとのこと。 | |||
グシク | グスク | 瀬滝 | ○ | 「天城町報告書」の説明によると、瀬滝集落が立地する台地の東側縁辺に位置しており、低地を挟んで瀬滝のテラと対峙する。テラとグスクの間に綱を渡しかけ、そこを綱渡りした人がいたという伝承があるという。ケンムンマーチ(火の玉)が目撃される場所でもあるという。屋敷はなく、空き地となっており、グスクはトネ屋敷のものだという。訪れたところ、確かに高台の端にあり、何の変哲もない場所であった。場所はここら辺。 | ||
長助筋 | 当部 | 「地名考」 | × | グスク地名の可能性を考慮し、掲載しておく。グスクとしては扱うかは一先ず保留。「辞典」では該当地名を見つけられない。「天城町報告書」では長筋(ナガシジ)とある。 | ||
カマントウグシク | 西阿木名 | 「論文」 | × | 「天城町誌」に天城町のグシク地名として紹介されている。「地名考」には加万塔という地名が見える。「辞典」では加万答とある。「論文」で紹介されている鎌田城(カマントウグスク)跡とは呼び名が同じだから、同一グスクと思われる。同文によると、稲作にかかわりのある城跡だという。なお、同文では所在地が伊仙町西阿木名と書かれているが、天城町の誤植だろう。「天城町報告書」所収の地図を見ると、西阿木名集落西側海岸近くの広い範囲の高台が小字加万答になるようだ。遺跡や古墳群などがたくさんあるようだ。 | ||
コースク | コーシク | 西阿木名 | × | 「天城町報告書」によると。公民館と山寺の間にある窪地を北側に下がっていった場所にある川一帯をコースクというとのこと。底や敷が語源のためグスク地名とは扱わないが、一見グスク地名と勘違いする地名が時々あることから参考までに掲載しておきます。 | ||
コウダグスク | 西阿木名 | ○ | どの文献にも載っていないが、ゆいの館で聞いたところ、西阿木名遺跡のことをコウダグスクと呼ぶ人がいるとのこと。高台であるし、遺跡もあるので、かつてそのように呼ばれていた可能性はあるのだろう。場所はここになる。 | |||
中城 | 「論文」 | × | 「論文」で小組合名としてのグスクとして紹介されている。どこの集落かは不明だが、町内のどこかの大字にある一部集落を称する名前だと思われるので、一先ずグスクとして紹介する。 ユイの館で聞いたときに大字天城だかの地区名としてこの名前があったように記憶する。 | |||
上城 | 「論文」 | × | 「論文」で小組合名としてのグスクとして紹介されている。どこの集落かは不明だが、町内のどこかの大字にある一部集落を称する名前だと思われるので、一先ずグスクとして紹介する。 | |||
上前城 | 「論文」 | × | 「論文」で小組合名としてのグスクとして紹介されている。どこの集落かは不明だが、町内のどこかの大字にある一部集落を称する名前だと思われるので、一先ずグスクとして紹介する。 | |||
下前城 | 「論文」 | × | 「論文」で小組合名としてのグスクとして紹介されている。どこの集落かは不明だが、町内のどこかの大字にある一部集落を称する名前だと思われるので、一先ずグスクとして紹介する。 | |||
伊仙町〔グスク数33(踏破数4:確認数3)〕〔グスク判断保留数2〕 | ||||||
ヒラウシク | 喜念 | 「辞典」 | × | 一見グスク地名にも見えるが、伊仙町の他のグスク地名と思しきものは「ウスク」のことが多いし、アコウの木を意味するウシクを指す可能性もあり得る。また、ヒラグスクと言った名前はありそうであまり聞かない(下にあるが)。したがって、グスクとして扱うかは一先ず保留。 | ||
タマグシク | 喜念 | ○ | 「雑記集成(11)」で紹介されている。俗称地名とのこと。喜念砂丘の近くにあり、現在共同墓地となっている。ハマグシクの転訛かとのこと。学校の北側にある墓地が周囲より小高くなっており、墓地であるから、ここになるのかなと思うが、教育委員会の人に聞いたらここではないと思うという答えだった。なお、国土地理院の地形図を見る限り、喜念に墓地は3つある。なお、場所はここになります。 | |||
喜念按司屋敷跡 | 喜念上泉袋 | 城郭跡 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。グスク名はないので、グスクとしては扱いませんが、城郭跡なので、参考までに載せておきます。 | ||
スクガ又 | スクガマ | 佐弁 | 「地名考」「辞典」 | × | 「地名考」ではスクガマとある。「雑記集成(3)」では紹介されていないが、グスク地名だと思われる。番地だと佐弁11〜40-6番地が小字スクガ又になるようだ。場所はここら辺周辺のようだ。近くに墓地はあるという意味ではグスクらしさはあるが、又地形だったかというと自信はない。 | |
グスクダ | 佐弁 | 「地名考」「辞典」 | × | 「雑記集成(3)」によると、集落の山手、県道から約2kmの地点にある。祭り田があって初穂の稲穂祭が行われていたという。一角の小高い場所はフゥドバルグシクと呼ばれ、石垣が積まれ見張り番所であったという。その下には、トゥルと呼ぶ聖地があり、人骨が見られるという。番地だと佐弁594〜601-2番地までが小字グスクダになるようだ。 | ||
フゥドバルグシク | 佐弁 | × | 「雑記集成(11)」で紹介されている。俗称地名とのこと。人骨があり、聖地でもあるようだ。また、按司の居住跡伝承があるとのこと。阿権にも同名のグスクがある。該当記事の著者は「雑記集成」と同じだが、「南島の地名第2集」でも紹介されている。 | |||
恩納(ウンノー)グスク | ウガングスク・ウガンウスヂ | 面縄ウガン | 城郭跡 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「トレジャーアイランド@徳之島」ではウンノーウガンと紹介されているが、同サイトの地図を見ると、ウンノグスクと記載がある。「論文」によると、城跡や見張所跡がある。また、馬根集落にあるウウビラグスク按司との戦の伝承がある。「雑記集成(3)」では、唐軍との戦の話が載っている。同書によると、人骨があり、聖地でもあるようだ。 | |
上川スク | 面縄 | 「地名考」「辞典」 | △ | 「辞典」では字前縄となっている。現在の上面縄東集落の西端、面縄川沿いの斜面ら辺になるらしい。 | ||
ウスクト | 面縄 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「辞典」では字前縄となっている。「雑記集成(3)」のグシク関係一覧表にも名前が見える。同書によると、人骨があり、聖地でもあるようだ。字図を見る限り、古里の北側、上面縄西の南側ら辺になる。周辺は神社などが複数あり、集落にとって大切な場所のようだ。 | ||
助竿 | 面縄 | 「地名考」 | × | 「辞典」ではらしき名前を発見できず。グスク地名の可能性があるので、掲載しておく。一先ずグスクとして扱うかは保留。 | ||
面縄按司墓 | 面縄(上面縄) | 墓地 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。以前に面縄(ウンノウ)グスクと紹介されていた気がするが、現在では左記の名前になっています。グスクではありませんが、参考までに載せておきます。 | ||
トラグスク | 検福古里 | 城郭跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。墓地がある岩場となっている。トラの語源はトゥールであろう。 | ||
ネーマグスク | 中山 | × | 「トレジャーアイランド@徳之島」で紹介されている。山の名前? | |||
ウウビラグスク | 馬根 | 城郭跡 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。データベースでは城跡とあり、他のグスクと違いフリガナが振られていないのでグスクと呼ぶのかは判然としないが、「論文」の恩納グスクの項目ではウウビラグスクという名前が出てくるので、グスクとして扱う。なお、トレジャーアイランド管理人によると、上記データベースの分類の位置は違うらしい。正確には上記データベースで示している場所から東北東にある標高150mの山頂部のようだ。 | ||
スコタ | スコ田 | 八重竿 | 「辞典」 | × | グスク地名と思うが、スクタ(今回はスコタだが)という名前はマキヨ名(古代の血縁集団)に由来する可能性もあり得る。字図を見ると、集落の真東の山地がスコタになるようだ。現段階ではグスクとして扱います。 | |
平ソコ | 平スク | 伊仙平スク | 散布地 | 「地名考」「辞典」 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。グスク名があるのと台地上の遺跡(但し、縄文時代)なので、グスクとして扱っておく。 |
アザマグスク | 浅間按司城・アザマアジグシク | 阿三 | 城郭跡 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。同データベース上では、アザマグスクとアザマ按司城跡の二つがあるように見えるのだが、名称がほぼ同じな上、他の文献ではデータベースと同様の分類をしているのを見ない。また、そもそもデータベースの地図では何故かアザマ按司城跡が見当たらないこともあり、同一グスクとして扱う。「雑記集成(11)」によると、俗称地名とのこと。見張り場の石垣があり、岩穴墓地から石器・須恵器が出土したとのこと。 | |
助当 | 阿三 | 「地名考」「辞典」 | △ | グスク地名の可能性があるので、掲載しておく。一先ずグスクとして扱うかは保留。字図を見る限り、御前堂の北側、野球場などがある場所周辺を言うようだ。 | ||
宿ノ戸 | 木之香 | 「地名考」「辞典」 | × | グスク地名と思われる。 | ||
アマングスク | 木之香太町 | 城郭跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「雑記集成(3)」によると、最高点には石積みがあるが、墓かは微妙なようである。近くには(標高70m地点)にはトゥル(風葬墓)があり、人骨がある。また、海浜側(標高30m地点)の崖下洞穴にも人骨があるという。後者の人骨は薩摩との戦争で死んだ琉球王朝役人アマンマルのだという。同書では、グスク名の由来はこのアマンマルか按司の居城、ノロの何れかに因むと推測している。もっとも、管理人としては、このグスクは眺望が良いので、海部族関係かなとも思われる。「雑記集成(11)」によると、俗称地名とのこと。 | ||
アマングスク | 天グスク | 阿権太野 | 散布地 | ? | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。同サイト掲載地図にはアマングスクの西隣にまた別のアマングスクがあることになっている。また、当グスクは字が阿権になっているが、阿権と木之香を隔てる川の西側にあることからグスクの位置及び数については若干疑問である。ひとまず、上記データベースの分類に従う。 | |
フードグスク | フゥドバルグシク | 阿権大当原 | 城郭跡 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「雑記集成(3)」で紹介されているフゥドバルグシクのことであろう。同書によると、按司屋敷であり、石垣がかつてあったという。また、洞穴があり、人骨もあったという。「雑記集成(11)」によると、喜念上原ノウチャデ按司との争乱伝承があるとのこと。 | |
ターミズグスク | タァミジグシク | 阿権 | × | 「雑記集成(3)」でタァミジグシクという俗称地名として紹介されている。上記フードグスクと同様に按司屋敷であり、石垣があったという。また、洞穴があり、人骨があったという。「雑記集成(11)」によると、馬根東部の塩漬溜りの盗人按司との争乱伝承があるとのこと。あおばと通信というミニコミ誌でも紹介されている。 | ||
城俣 | グシクマタ | 阿権 | 「地名考」「辞典」 | × | 「雑記集成(11)」を見ると、人骨があり、聖地であるようだ。 | |
ミョウガングスク | 明眼城・妙厳按司城 | 犬田布明眼 | 城郭跡 | ○ | 明眼の森自然公園内にある。内部には明眼神社がある。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「論文」によると、石積みの遺構があるという。「雑記集成(11)」によると、俗称地名とのこと。「雑記集成(11)」を見ると、人骨があるようだ。城主の娘はノロであったようだ。 | |
ノーグスク | 犬田布 | △ | 「トレジャーアイランド@徳之島」で紹介されている。他の文献にもあった気がするが、見つからない。ミョウガングスクのすぐ北東にある舌状の地形(標高150m)付近のことを言うようだ。理由は分からないが、ノーグスクとは出城の性格を有することが多く、このノーグスクも立地的に似た感じである。 | |||
グスクチジ | 犬田布 | △ | 「トレジャーアイランド@徳之島」で紹介されている。これも他の文献にあった気がするが、見つからない。ミョウガングスクの東側、糸木名に向かう県道のカーブ西側にある。水道施設らしきもの付近のようである。管理人は見つけられなかったが、小さい拝所があるらしい。 | |||
下内城 | 内城・サァウチグシク | 犬田布 | 「地名考」「辞典」 | ? | 「トレジャーアイランド@徳之島」で紹介されている。「雑記集成(3)」によると、字内に俗称内城があり、高台の低くなっている部分にマンクミィドゥ(馬込み所?)があったという。また、内城の高台(163m)斜面には洞穴があり、人骨があるという。高台には石垣があるという。「雑記集成(11)」によると、崎原との境界近く、丘上に分布するとのこと。崖下のらしき場所を訪れて見たが、国土地理院発行の地形図と地形が変わっているように見え、正確な場所が分からなかった。 | |
ウチグシク | 犬田布 | × | 「南島の地名第2集」で俗称地名として紹介されている。上記下内城との上にあるのだろうか。 | |||
ウスクブシ | ウシクブレ | 犬田布 | 「地名考」「辞典」 | ? | 「トレジャーアイランド@徳之島」で紹介されている。「雑記集成(3)」ではウシクブレとある。同書によると、ブレは群であり、人骨がある地点の可能性があるという。「雑記集成(11)」を見ると、人骨の欄に○があるから確認したのだろうか。訪れて見たが、下内城と同様に地形が異なっているように見え、正確な場所が分からなかった。 | |
上ウスク俣 | 上グスク俣 | 糸木名 | 「地名考」「辞典」 | × | 「地名考」では上グスク俣となっている。ウスクもグスク地名の変化系であることの証拠と言える。もっとも、「雑記集成(3)」ではウシク(雀榕)に因む可能性も指摘している。 | |
中ウスク俣 | 仲グスク俣 | 糸木名 | 「地名考」「辞典」 | × | 「地名考」では仲グスク俣となっている。 | |
ウスク田 | ウスク | 糸木名 | 「辞典」 | × | 「地名考」ではウスリ田ならある。「雑記集成(11)」で紹介されているウスクとは同一か。 | |
南ウスク田 | 南ウスク | 糸木名 | 「辞典」 | × | 「地名考」では南ウスリ田ならある。「雑記集成(11)」で紹介されている南ウスクとは同一か。 | |
下グスク俣 | 下ウスク俣 | 糸木名 | 「辞典」 | × | 「地名考」では下ウスリ俣ならある。「雑記集成(11)」で紹介されている下ウスク俣とは同一か。 | |
ウスク道 | 糸木名 | 「地名考」「辞典」 | × | 「雑記集成」では字糸木名のグスク地名と思しきもののうち、唯一名前を見かけない。 | ||
コスク又 | 小島 | 「地名考」「辞典」 | × | |||
奄美市(笠利)〔グスク数43(踏破数17:確認数12)〕〔グスク判断保留数2〕 | ||||||
赤木名グスク | 中金久 | 城郭跡 | 「論文」 | △ | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。「論文」ではグスク関連遺跡として紹介されている。奄美でも有名なグスクではあり、種々の論文等で赤木名グスクとして紹介されているが、元来からグスクと呼んでいたのかは管理人としては確信が持てず(他にもそういうグスクは幾つかありますが)。 | |
按司グスク | 屋仁小字大平 | 城郭跡 | 「論文」 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「論文」ではグスク関連遺跡として安司城(アジグスク)という名前で紹介されている。場所はここになる。なお、上記データベースで紹介されている場所は(迷惑なことに)間違いである(参考文献:奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書)。前記報告書によると、明確な遺構は発見出来なかったが、標高115mの山頂部分は樹木を伐採すると見晴らしもよく見張り台を思わせる地形だという。なお、「笠利町誌」に、屋仁按司加那司と宇宿按司との抗争の話が載っている。グスクの中腹が、いつからなのかは分からないが整地された感じになっている。ただし、入口に鎖が掛かっていて進入はできない。 | |
アニグスク | 屋仁小字崎山 | 城郭跡 | 「論文」 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「論文」ではグスク関連遺跡として安司城(アニグスク)という名前で紹介されている(「笠利町誌」では兄城という名称で紹介されている。)。場所はここになる。なお、上記データベースで紹介されている場所は(迷惑なことに)間違いである(参考文献:奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書)。 | |
大城 | 屋仁マシキ田 | 「論文」 | △ | 「論文」ではグスク関連遺跡として大城(フウグスク)という名前で紹介されている。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」によると、標高115mの山頂は、見張り台を思わせる地形だという。「笠利町誌」の孫引きになるが、屋仁按司加那司が大城など見晴らしのきくところに家来を配置し、外の按司が襲ってくるのを見晴らしていたという。場所はここになる。 | ||
城田 | 佐仁 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 下記佐仁グスクがある場所及び付近になるようだ。地番は2342−1〜2403番地まであるようだ。なお、役場で閲覧した小字図及び佐仁グスクの位置からして、小字城田はある程度内陸にあるように見えるが、gooマップで調べた限り、住所上の2370番地はここになるようだ。小字城田内にあるかは分からないが、厳島神社がある。「奄美市笠利地区集落歩きガイドブック」ではグスク跡と思われるという説明文が厳島神社にはついている。 | ||
佐仁グスク | 佐仁 | × | 「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」で紹介されている。小字城田・長マシの標高65.2mの台地上にあるという。ただし、その他諸文献で全く紹介されておらず、城(堀切)がある場所に対してグスク名を付けたのではという疑念があるので、グスクとしては扱いません。もっとも、上記小字城田上にあるので、包摂関係にあるとして1つとして数えていいのかもしれない。場所はここになる。現地ではオガミヤマと呼ばれているようだ。 | |||
楠野 | 佐仁 | 「地名考」「辞典」 | ○ | 「辞典」によると、「クスノ」と読む。十島村の中之島には楠木(くすき)というグスク地名があることから、グスク地名の可能性が無くはないので掲載する。単純にクスノキが生えている場所なだけの可能性もあるし、グスク名のうち末尾の「ク」の方が脱落するかは疑問なので、グスク地名と扱うかは保留。地番は171−1〜313番地まであるようようだ。なお、場所はここになる。 | ||
上楠野 | 佐仁 | 「地名考」「辞典」 | ? | 上記楠野と同様の理由で掲載する。地番は669〜720番地まであるようだ。場所は自信がないが、ここら辺だろうか?楠野から上流へ向かってみたが、途中からは原付で行けない道となったので断念。 | ||
中城 | 用 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 用総図を見る限り、集落の北半分、公民館周辺が字中城で間違いない。なお、総図作成当時と同じ場所に道路が通っているとしたら、県道82号線より東側は字アガレになるようだ。地番は55〜131−1番地まである。場所はここ周辺となる。訪れた感想では墓地があったとか高台があったという記憶はない。 | ||
城田 | 用 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 総図等を照らし合わせる限り、用から佐仁へ向かう林道の途中にあるように見える。北隣の字は苗代田とこれもまた田がつく地名だが、現地を通った記憶と地形図を見る限り、城田も苗代田も田んぼがあったような印象はない。もっとも、小字図を見る限り、地目が畑は多いようだ。グスクの語源どおり囲った場所にある田んぼという意味なのかもしれない。なお、地番は1178〜1227番地まである。場所は多分ここら辺。 | ||
赤峰グスク | ハンニャグスク・ムェングスク | 笠利 | ○ | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。笠利中学校のある丘全体を言うようだ。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」所収の地形図を見ると、グスクの範囲は西側の道路まで広がっている。また、グラウンドの西側に地形的には如何にもグスクっぽい小丘があるのが見え、同報告書によると見張り台を思わせるという。「辺留城(グスク)発掘調査報告」によると、コウエンと呼んでいるとのこと。同報告によると、学校敷地に沿う道に面した畑地をムェングスクと呼ぶという(所収の地図を見る限り、学校のすぐ南側斜面のように見える)。また、小字赤嶺の南隣にある小字小田は、かつては前城と呼ばれていたという。前記各種文献を総合して考えると、笠利中学校の敷地及び周辺を含んで赤峰グスクと呼び、その中で小字小田にある一部をムェングスク(前城)として呼んでいたように思われる(なお、行政上の前城(現小字小田)はもっと広い。)。赤峰グスクと呼ばれる範囲の中にムェングスクがあるように思われるので、グスクは一つとして数えます。 | ||
富グスク | 上殿内 | 笠利字富城 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「論文」ではグスク関連遺跡として紹介されている。「辺留城(グスク)発掘調査報告」によると、軍事力をともなう船の意味だという。そして、琉球王府による笠利討ち、喜界島討伐とも関係があるようだ。なお、上記データベースの位置は間違いである。場所は金久地区のうち県道601号線より東側になる。施設等は笠利3区公民館、笠利郵便局や大島奉行所跡地がある。場所はここになる。 |
笠利ウーバルグスク | 笠利 | 散布地 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。奄美市教育委員会発行の「赤木名城」によると、骨制サイコロ等が出土しているとのこと。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」によると、海岸に出る途中に岩陰があり、トフル墓が数か所確認出来るという。同所によると、グスクと西側に隣接すウーバル遺跡にもトフル墓があり、内部にはおびただしい人骨が確認出来るという。なお、現在のグスクは単なる畑となっている。「辺留城(グスク)発掘調査報告」によると、ウーバルは大原(フゥバル)からきた地名だという。 | ||
金久城 | 金久ノ城 | 笠利 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「地名考」では金久ノ城とある。同一グスクであろう。地番は857〜888番地まである。概ね笠利聖母保育園の周辺になるようだ。現地看板で紹介されているアモレマタも近くにあるように見える。場所はここになる。見晴らしの良い丘になるが、グスクらしさがあるかというと微妙である。 | |
山城 | 笠利 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 地番は2090〜2121番地になる。場所はここら辺になる。 | ||
城田 | 笠利 | 「地名考」「辞典」 | ? | 「辺留城(グスク)発掘調査報告」では、その位置や山容から城であった可能性を示唆している。地番は1178〜1227番地になる。場所は同報告によるとここら辺(用ダム周辺)になるが、googleやmapion等のいずれの地図を見てもこの辺りは大字用に属しているように見える。仮にもう少し東で大字笠利に属する場所にあるとしても、笠利字図を見ると字城田の西隣には字スリ又や字山田があるはずなので、まだ食い違う気がする。ひとまず、上記報告が指し示す場所を掲載しておく。 | ||
高城 | 笠利 | 「論文」「辞典」 | △ | 集落の南方に高岳というのがあり、高城から近いが何か関係があるのだろうか?地番は1233〜1289番地になる。場所はここら辺になる。 | ||
城泉川 | グスクイジュンゴ | 笠利 | 「論文」 | × | 何故か「地名考」「辞典」では紹介されていないが、役場で見た笠利字図には掲載がある。「論文」でもグスク小字地名として紹介されている。地番は1291〜1329番地になる。場所はここら辺になる。近くを道路は通っているが、城泉川へ下りる方法は分からなかった。谷地形となっているため、川はあるのだろう。 | |
辺留グスク | 辺留城 | 辺留 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。当該場所には大島奉行所跡と辺留城古墓入口と書かれた看板がある。「論文」ではグスク関連遺跡として紹介されている。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」によると、段差や土塁が残っているという。辺留城墓地の所在地は大字辺留城7〜8番地になる。グスクの範囲は各種文献を見ると、県道601号線より東側の台地の広範囲が含まれているように見えるが、本来は上記墓地の狭い範囲だったのかもしれない。なお、各種大字が表記されている地図を見ても、辺留グスクがある場所は大字笠利の範囲内にあるようにしか見えない。辺留字辺留城と笠利字富城は入り組んでいるらしいので、各種地図の表記ミスであろうか?地番は1−1〜31番地になる。 |
アヤマルグスク | 須野字アヤマル | 散布地 | ○ | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。元国民宿舎あやまる荘があった場所で、奄美十景あやまる岬の看板が立っている小丘のことをいうようだ。 | ||
崎城 | 須野 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ? | 「論文」グスク関連遺跡で紹介されている(別称としてアヤマル城という名前も併記されているが、アヤマルグスクは崎グスクとは別グスクである。もっとも、小字アヤマルと小字崎城は隣り合っているので、関連性はあるのかもしれない。)。「論文」グスク小字地名の大字金城原にある崎城も同一であろうか(少なくとも現在金城原という大字はない。)。なお、「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」で厳島神社近辺に崎城跡が存在するように記載されているが、そこに崎城というものはない。須野総図を見る限り、少なくとも小字崎城はアヤマル岬の南に位置する。総図の位置及び小ビロの小字図を見ると、地目(?)として村社敷地という文字が見えるので、厳島神社周辺が小字崎城になることはあり得ない(小字地名とは別に崎グスクという遺構が存在する可能性はあるが、上記データベースでは小字崎城にあるように記載があるので、いずれにせよ間違いである。)。小字崎城の位置は総図を素直に見る限りは、ここら辺になる。もっとも、地番(900〜930番地)と数字が被る住所の場所を調べたところ、崎原集落周辺になってしまう(もちろん、地番と住所が一致するとは限らない。)。なお、総図を見る限り、小字崎原も存在するし、場所も現崎原集落を示しているように見える。しかし、崎城の小字図を見ると、宅地が散在しているので、これも現崎原集落のようにも見える。場所の比定については、小字崎原の小字図も調べるか、小字崎城が載っている登記簿を取る必要があるかもしれない。 | |
城 | 須野 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 総図及び小字図を見る限り、県道601号線より東側を除く須野川沿い両対岸を示しているように見える。地番は2564−1〜2592番地になる。なお、小字金久にある公民館等の後方(西側)だと標高が少し高くなり森があるので、地形的にはグスクっぽさがある。地形図を見ると、小字金久や大字辺留との境界に崖等の段差があるようにも見えるので、風葬墓などがあるかもしれない。 | ||
山城 | 宇宿 | 「地名考」「論文」 | ? | 地番は小字図を見る限り907−1〜957番地まであるように見える(ただし、換地処分がされているので、消えた番地も多いように見える。)。かなり自信はないが、ここら辺だろうか?池周辺は若干高台になっているように見える。取り敢えず現地を訪れて見たところ、高台となってはいるが、本当にここなのかは自信がない。仮にここだったとしてもグスクらしさはあまりない。 | ||
宇宿貝塚 | ダンベ山 | 宇宿字大籠 | 「辞典」 | ○ | 所在地は宇宿というグスク地名であるし、中山清美も「奄美学 その地平と彼方」において、グスクとして宇宿ダンベ山を挙げているので、グスクとして扱う。名嘉正八郎の「沖縄の城」でも紹介されているようだ。「奄美大島グスク分布地名表」にも記載がある。このブログを見ると、ダンベ山は神山であり、墓でもあるそうなので、グスクとしての条件は備えているといえる。「笠利町誌」では、宇宿の地名はグスク由来とし、宇宿大屋子といった政治的権力の所在地がグスクと呼ばれ、それが「ウシュク」となったと推測されている。なお、ダンベとはつた類の方言名になる。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」及び宇宿貝塚史跡公園で話を聞いたところ、ダンベ山は地元では神山として扱われており、首のない豚、火の玉、ケンムンが出没する場所として怖れられていたという。また、縄文時代から中世の間にも墓として使用された形跡があり、近くには聖地視される泉があることから、古来より拝所であったという。 | |
杉又 | 宇宿 | 「地名考」 | ? | 役所で見た宇宿字図にも名前がある。元はグスクマタであった可能性があると思われるので、一先ずグスク地名として数えます。地番については何故か小字図が役所でも見つからなかったので不明。宇宿字図を見る限り、確かに又地形のように見える。自信はないが、ここら辺だろうか。 | ||
万屋グスク | 城 | 万屋 | その他 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。「論文」で城グスク関連遺跡として紹介されているのはこの万屋グスクのことであろう。笠利町教育委員会発行の「笠利町万屋城」によると、サンゴの配石遺構、ピット、V字溝、人骨、13世紀前半まで遡れる青・白磁等が発見されたという。万屋集落にある案内看板によると、サンゴ石が敷かれた池の遺跡が出没したという。所在地は県道82号線及び601号線の交差点から西方約100m地点(標高10〜12m)になる。上記看板等を見る限り、グスクがある場所は、県道601号線より北側にあるように見えるが、前掲書を見ると、道路の南側まで含まれているようだ。ただし、畑地整備事業等で破壊されたという。周囲はなだらかな傾斜地にしか見えないが、前掲書によると、湧水源があったこと、遺構部分は整地される前はもっと深かったと思われることから、グスクの立地する地形は独立した小丘を呈していたのではないかとのこと。グスクの性質については、地形が大きく変更されているため、城なのか、聖域なのか、集落なのかは判断がつかないとのこと。しかし、地形、規模、標高等から城に関連するとしても、居館や小規模な砦的施設であったであろうとのこと。なお、遺構としては万屋グスクになるが、地名としては小字城になる。小字城の中に万屋グスクがあるし、前掲書を見ると、「この遺跡がグスクと呼ばれる」との記述があることから、グスクとしては一つとして扱います。地番は912−1〜989番地まであるように見える。場所はここになる。 |
宇宿山田 | 万屋 | 「地名考」「辞典」 | ? | グスク地名であろう。換地処分が大々的にされていること及び小字図が見にくいことから分かりにくいが、地番は529〜599番地あたりが範囲のように見える。場所は総絵図等を見る限り、淀山北東の裾野から東側にあるように見える。一帯は総合運動公園があり、道路も整備されているように、かなり地形が変わっているように思う。場所はここら辺一帯だろうか。 | ||
城間 | 万屋(城間) | ○ | 城間という字名なので、グスク地名として扱う。もっとも、現地読みではシルマではある。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」を見ると、城間は白間と並べられて語源等が論じられているので、同書ではグスク名が由来になるとの前提には立たないようである。管理人としては、集落には城間トフル墓という遺跡があることもあり、グスク名由来かなと一先ず考えています。 | |||
大城 | 和野 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 集落にある案内看板を見る限り、集落入口にある交差点(県道82号線沿い)から見て南西側の丘陵が大城となるようだ。読みはフーグスクである。地番は1177〜1260番地まであるように見える。字の東端はここら辺になる。あとは内陸(西)の方へ伸びているようだ。 | ||
前城 | 和野 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 和野絵図を見る限り、大城の南隣にある。地番は1530〜1562番地まである。場所は1529番地の住所と道路の位置からしてここら辺が字の東端になる気がする。絵図を作成したときと道路位置が変わらないのならば、左記リンク先で見える道路の北側にあるように見える。 | ||
山城 | 節田 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 地番は2263〜2342番地まである。小字図を見る限りはもう少し北東寄りな気がするが、大字図や地番の位置関係からはここら辺な気もする。 | ||
用安湊グスク | ヤトグスク・湊城 | 用安 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 小字は湊城となる。「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。「遺跡ウォーカー」ではヤトグスクと紹介。「論文」ではグスク関連遺跡としても紹介されている。ばしゃ山村の山手側施設にある。「笠利町誌」によると、グスクがある丘陵近くのアコウ樹の中に横穴の洞窟があり、そこは与湾大親一族の墓所だという(もっとも、工事により破壊され跡形もないらしい)。地番は1506−1〜1524番地まである。場所はここになる。 |
ワーグスク | 用安 | 不明 | × | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。前記地名表掲載地図を見る限り、集落東の海側にあるように見える。 | ||
大城 | フーグスク | 用安 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」によると、赤尾木から延びる山と用安から北に延びる台地上に位置し、台地北側の山裾に大親神社が所在するという。神社がある山(標高89.5m)は神山と呼ばれているという。標高34mの台地状をなす両端は自然の谷で深く切られ、前方(東側)は急峻な崖になっており、土塁も一部残っているという。また、舌状先端の自然石が積まれている場所は、かつて墓だったと言われているという。(遺構としての?)大城は、同報告書掲載地図にある大城の位置を見る限り、用安〜喜瀬間の道路より東で、大親神社より西にあるように見える。小字大城の位置は、用安絵図を見る限り、大親神社が含まれているか微妙である。「笠利町誌」によると、大親神社の位置は用安字ナンネ1727番地とあるので、後記地番の中には含まれない。なお、笠利町歴史民族資料館で聞いたときは、用安集落北東の神社周辺を大城と呼ぶと聞いた。地番は1655〜1679番地になる。場所はここら辺。 | |
山城 | 用安 | 「論文」「辞典」「辞典」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。「笠利町誌」に喜世の大屋子がガリヤ族からの防衛のために選んだ要地として名前が載っている。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」によると、標高130mと161mの山からなりその山頂部分は台をなしていて、尾根は人の手が加えられた土橋となっているという。そして、麓30〜50m地点ではカムィヤキ、青磁などが表採されているという。もっとも、同報告書掲載地図にある山城の位置を見ても、用安絵図を見ても、少なくとも標高161mの山は字山城内にはない(130mの山も、麓はともかく山頂は字山城にあるようには見えない。)。地番は1559〜1581番地まである。場所はここら辺。 | ||
中城 | 用安 | 「論文」 | ? | 「論文」グスク関連遺跡の欄で中城(ナーグスク)として紹介されている。集落にある大屋神社の鳥居を見ると、用安中城と書かれているからここであろうか?もっとも、神社自体は近年建立されたものであり、昔からここが中城と呼ばれていたのかは疑問無しとはしない。「地名考」「辞典」には中城という地名は見当たらない。 | ||
金城 | 用安 | 「論文」 | × | 「論文」グスク関連遺跡の欄で金城(カナグスク)として紹介されている。字名ではなさそうだ。沖縄であれば鍛冶跡に付く名前だったりする。なお、「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」によると、湊グスクにおいて製鉄遺構が3か所発見されているという。 | ||
石ウシュキ | 用安神ノ子 | ○ | 龍郷町から笠利入ってすぐの所にある小さな岩場に石ウシュキという標が立っている。「笠利町誌」によると、石置所と書いてイシウシュキと呼ぶようだ。ネットなどで調べると「置いていけ」の方言が「ウシュキ」だという。前記文献によると、与湾大親征伐の時、与湾大親がこの岩に石を集め、琉球の軍船に投石し、その後自決したという。伝承及び語源からすると、グスクではないが、グスク地名に近いこともあり、紹介しておく。何となくではあるが、伊平屋村にあるヤヘーグスクと似た感じを受ける。 | |||
喜瀬グスク | 城田・城田グスク・ムンタヤマ | 喜瀬 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 集落にある案内看板を見ると、喜瀬一区にある郵便局南方の山をムンタヤマ(喜瀬グスク)と呼ぶようだ。看板の説明書きによると、津波の時の避難所であり、城郭の跡が確認出来るという。2009年発刊の「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」を見ると、字城田が大部分も占めていることから、城田グスクと名付けるとある。同書によると、グスクにある石垣の中には金と一緒に人骨なども入っていると噂されているが、誰も確認をしていないという。このグスクに限らず喜瀬集落内のグスクは、果たして昔からグスクと呼ばれていたのか疑問無しではないが、少なくとも字城田があり、人骨の話があることから、ここは昔からグスクと呼ばれていたのかもしれない。なお、川内集落へ向かう途中に何となく上れそうな道がある。場所はここになる。字城田の地番は1789〜1828番地のようだ。 | |
浦グスク | 喜瀬浦グスク | 喜瀬字浦 | △ | 現地看板によると、標高30mのナゴ又山の中央部分から先端にかけて居館跡が確認されていて、防御機能を備えているという。また、神山だという。本グスクは、近年になってから城跡に対してグスク名を付けられたのではという疑念があるが(「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」で、新たに発見されたグスクという表現がされている。)、笠利町歴史民族資料館で聞いたところ、地元で浦グスクと呼ばれているようなので、グスクとして扱う(いつから呼称されているかまでは調べていません。)。場所はここになる。 | ||
宮田タナグスク | 宮田グスク・タナグスク | 喜瀬 | △ | 現地看板によると、パッケマラ山の西側にあり、付近には土塁と石垣遺構が残っているという。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」によると、ノロ墓もあるという。ケンムン出没の場所、木を切ったら手も切って病院に運ばれた、草を刈ってヤギに食べさせたら翌日に死んだなど、ともかく怖い話が多く、怖れられている場所のようだ。笠利町歴史民族資料館で聞いたところ、地元で宮田タナグスクと呼ばれているとのこと。なお、パッケマラ山には津波から逃れた男女2人による喜瀬集落島立て伝説がある。場所はここになる。 | ||
大和グスク | 大和城 | 手花部字大和城原 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「論文」グスク関連遺跡でも紹介されている。正式な小字名は大和城原だが、「地名考」では大和城と表記されている。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」によると、昔は墓があったという。現在は平場となっている所にこんもりとした塚があり、その周囲は1mほどの溝で囲まれており、「はちまき山」と呼ばれていたという。また、茂野幽考により大正12年に風葬の遺跡として確認されているという。笠利町歴史民族資料館で聞いたところによると、字としての大和城原の他に手花部小学校の裏側(西側)にある山も大和城と呼ぶらしい。また、地名の由来として大和と戦をしたからという話も聞いた。宇宿貝塚史跡公園で聞いたところ、山頂では今でも骨が出るとか。なお、小字大和城原の地番は3159〜3174番地になる。場所はここになる。 |
手花部グスク | グスク跡 | 手花部字大道原 | 城郭跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。手花部集落に設置されている看板ではグスク跡という名称が付いている。手花部集落南側にある厳島神社後方(南方)の尾根にある。「奄美市笠利町グスク詳細分布調査報告書」によると、畑として大規模な耕地が行われており、明確な遺構は確認出来なかったという。しかし、現地看板によると、14世紀の物と思われるカムィヤキと青磁等の陶磁器が表面採集されているという。管理人は途中までしか上ってませんが、頂上まで行けそうな道が複数確認できた。グスク名は如何にも後世に付けたっぽいが、グスクがある小字大道原と南側(山側)に接している字が城川内であることから、名称はさておき古来からグスクと呼ばれていた可能性は高そうである。場所はここになる。 | |
金城 | 金城原 | 手花部 | 「地名考」「辞典」 | ○ | 「辞典」では金城原とある。金城は基本的に鍛冶にまつわる地名のことが多いが、小字図を見ても上空写真を見ても畑しかない場所に見える。地番は25−1〜58番地になる。場所は小川(用水路?)と道路に挟まれた場所になる。訪れて見たが、予想どおり単なる畑であった。 | |
城川内 | 城内原・城川内原 | 手花部 | 「論文」「辞典」 | △ | 手花部の地積図一覧によると、城川内と表記されているが、「論文」では城川内原、「辞典」では城内原と各種文献で表記がばらけている。なお、「論文」では喜瀬のグスク地名として紹介されているが、誤記であろう。「地名考」ではらしき名前が見当たらない。表記は奄美市の公的資料に従って城川内と表記する。地積図一覧等を照らし合わせる限り、手花部グスク南から更に南方の山(標高106m)までの山岳部になるように見える。西と接する字城溜池とは、一部道路が境界となっている。地番は2468−1〜2548番地になる。場所はここら辺になる。 | |
城溜池 | 城留地 | 手花部 | 「論文」「辞典」 | ○ | 手花部の地積図一覧によると、城溜池と表記されている。「論文」では喜瀬のグスク地名として紹介されているが、印刷ミスであろう。同書では城留地と後ろ二つの漢字が別であるが、恐らく読みは一緒であり、当てた漢字が違うだけなのであろう。「地名考」ではらしき名前が見当たらない。読みは、他の小字溜池の読みからして「ためいけ」「たみき」「たみきん」とか発音するのが正しいと思われる。地積図一覧等を照らし合わせる限り、手花部グスクがある山の西隣に位置する山周辺が城溜池になるように見える。地番は2550〜2587番地になる。場所はここら辺になる。グスク周辺を見てみたが、山と谷と畑がある程度である。 | |
龍郷町〔グスク数37(踏破数4:確認数7)〕 | ||||||
赤助尻 | 赤助尼・八助尻 | 秋名 | 「論文」「地名考」 | △ | 秋名総図小字番号13番に赤助尻という地名がある。しかし、番号に対応する小字図を見ると何故か八助尻とある。「龍郷町誌」によると、「ハスケジリ」と呼ぶようなので、「ハー」という読みに「赤」か「八」のいずれかの漢字を当てたということだろうか(奄美では「ハー」「ホー」という音に「赤」の文字を当てることが多い。もっとも、「八」を当てる例があるかは分からない。とすると、「八(はち)」ではなく、「ハ(は)」であろうか?。「論文」ではグスク小字地名として赤助尼が紹介されているが、誤記であろうか?なお、「地名考」「辞典」では名前が見当たらない。「地名考」には助尻という地名があるが、13番目に書いてあるので、赤助尻のことであろう。赤の文字が脱落したのであろうか?地番は1469〜1532番地まである。総図と「龍郷町誌」所収の秋名民俗地図を見る限り、標高213mの山の東側部分辺りが赤助尻のように見える。場所はここら辺であろうか?なお、前記標高213mの山には神社跡地があり、そこに至るまでの道があったようだ。 | |
大スク | フースク | 秋名 | 「地名考」「論文」 | △ | 「論文」でもグスク小字地名として紹介されている。また、グスク関連遺跡・伝承地として大城(フースク)が紹介されている。小字大スクにグスク関連遺跡として大城(フースク)があるということでいいのだろうか?なお、小字図には大スクとあるが、秋名総図には大ソリと書いてあるように管理人には見える。地番は1619〜1660番地まである。区域は総図を見る限り、秋名のうち奄美市名瀬芦花部と接した北半分になるようだ。大スクの南端は標高246.5mの山頂になるようにも見える。集落の西側にモリヤマがあるというので、大スクがモリヤマになるのかもしれない。字の中心部はここら辺であろうか? | |
杉蓋 | 杉フタ | 秋名 | 「地名考」「論文」 | ? | 「論文」でグスク地名として扱っているので、グスクとして扱う。地番は2043〜2057番地まである。総図を見る限り、場所はここら辺であろうか?ひょっとしたら尾根一つ分南でここら辺かもしれない。林道を通ったが、同じ景色が続くので、どこが当該グスクか分からない。 | |
中場助 | 秋名 | 「地名考」「論文」 | ? | 「論文」でグスク地名として扱っているので、グスクとして扱う。地番は2058〜2108番地まである。総図を見る限り、場所はここら辺であろうか?総図に乗っている道路と現在も秋名と名瀬芦花部を結ぶ林道が同じであるなら、上記地図で示したとおり尾根沿いというよりは谷沿いの方が中場助のようにも見える。もっとも、長場助と中場助との間にある小字は配勝と明らかに谷地形の名前なので、そうするとここら辺であろうか? | ||
長場助 | 秋名 | 「地名考」「論文」 | ? | 「論文」でグスク地名として扱っているので、グスクとして扱う。地番は2162〜2232番地まである。総図を見る限り、場所はここら辺であろう。なお、「龍郷町誌」によると、ここをグスクと呼ぶという。ギリギリ長場助の範囲に収まっているように見えるので、1つのグスクとして数える。 | ||
クスク | 秋名 | 「論文」 | △ | 「論文」で大字大(フゥード)にあるグスク関連地名として紹介されている。なお、大字名は絵図等を見る限り、「大」ではなく「大+(糸+戸)」であろう。総図を見る限り、大スクと同様に奄美市名瀬芦花部と接した部分のうち真ん中半分というところだろうか。芦花部トンネル近くの旧道が標高169mの山頂部分を通っているようなので、ここら辺にクスクと呼ばれる場所があるのだろうか?なお、その場所はここになる(地図情報上は165mほどであるが。)。 | ||
助勝 | 幾里 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「辞典」によると、「スケガチ」と読む。「論文」でグスク地名として扱っているので、グスクとして扱う。しかし、龍郷町に備え置いてある幾里絵図では助勝という小字はなく松がり(小字図では松勝)とある。ただし、「龍郷町誌」では「(木+夕)+勝(スクガチ)」という小字がある。地番は1097〜1109番地になる。場所については全く自信がないが、ここら辺であろうか? | ||
城 | 嘉渡城 | 嘉渡 | 「論文」 | × | 「論文」グスク関連遺跡で紹介されている。小字のグスク地名とは別グスクとして扱う。 | |
上城田 | 嘉渡 | 「地名考」「論文」 | × | 「龍郷町誌」の字名表にも名前が見える。「辞典」では名前が見当たらない。番地は1740〜1756番地になる。場所はここら辺であろうか?標高162mの山の中腹辺りのように見える。地形からは田にまつわる地名とは思えない。城田という地名の語源を考えさせる場所である。 | ||
城川 | 城ン川 | 嘉渡 | 「地名考」「論文」 | ? | 「龍郷町誌」ではグスンゴ(城ノ川)とある。「辞典」では名前が見当たらない。嘉渡字図では城川とある。地番は299〜328番地になる。場所は多分ここら辺。カテリャ山と呼ばれるオガミヤマから少し南側にある。小字図を見ると、小字城川を水源とした川が流れているように見える。「龍郷町誌」によると、水道のなかった時代、村人たちはここから飲料水をくみ出していて、高台には屋敷跡と思われる所があるという。同誌所収の地図を見ると、カテリャ山からグスン川という川が集落に向かって流れている。集落のバス停近くに小川があったので、これがグスン川であろう。 | |
カラスバスケ | 嘉渡 | 「論文」 | × | 「論文」のグスク関連地名で紹介されている。所在の小字は中金久のようだ。中金久の小字図を持っていないため正確な場所及び番地が分からないが、多分小字中金久はここら辺。 | ||
大城 | 円グスク | 円 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 「龍郷町誌」の字名表にも名前が見える。「辞典」によると、「オオグスク」と読む。「龍郷町誌」では「フーグスク」という読みで紹介されている。地番は922〜973番地まである。円字図を見る限り、円グスクの位置は小字大城の西端にあるように見えるので、グスクとしては一つとして数えます。なお、遺構としての円グスクについては、「図説 沖縄の城」で紹介されているようだ。名嘉正八郎の他に中山清美も文献にて紹介しているようです。円小学校の裏手にあるということで、現地で校長(?)らしき人に聞いたところ、学校の東南東あたりにある小山がそのようです。時折道を掃除などして子供達と上っているらしい。「龍郷町誌」によると以前はコウエンと呼ばれていたという。個人的には円グスクという名称は存在せず、近年になってから、字大城にあるフーグスクと呼ばれていた場所を円グスクとして名付けたのではと思っている。なお、円小学校の住所は731番地なので、学校自体は小字大城内にはないようだ。遺構としての円グスクの位置はここら辺と思われる。 | |
城田 | 円 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「龍郷町誌」の字名表にも名前が見える。「辞典」によると、「シロダ」と読む。地番は306〜321番地まである。小字図を見る限り、西側を川又は水路が通っているが、今でもあるのかは分からない。場所はここら辺。地形図で見る限りは三方を山で囲まれた地形のように見える。「龍郷町誌」によると、集落を俯瞰できる場所だという。 | ||
小宿 | 円 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「龍郷町誌」の字名表にも名前が見える。「辞典」によると、「コシュク」と読む。地番は1503〜1539番地まである。円字図にある位置からは若干北になるが(そもそも字図作成時の円と現在の円では円の範囲が大きく異なっているように思え、場所が比定しにくい。)、他の小字や番地からするとここら辺になるであろうか? | ||
城下 | 龍郷 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「龍郷町誌」の字図にも名前が見える。総図を見る限り、城と南側に接している場所のようだ。「辞典」によると、「シロシタ」と読む。「龍郷町誌」によると「ゴスコ」と読むようだ(下の読みはどこに行った?)。語源は文字通りグスコの下という意味なのであろう。地番は379−1〜435番地まである。436番地以降は土地改良事業が行われ、ほとんどの地番は消失(という表現で正しいのか?)しているが、一番数字が大きい地番としては663−1番地までは存在していることが小字図上確認出来る。場所はここら辺であろうか。小字図を見る限りは川沿いの北側が城下になるようだ。 | ||
城 | グスコ | 龍郷 | 「地名考」「辞典」 | × | 総図にある小字城と「龍郷町誌」所収民俗地図にあるグスコの位置を比べるとほぼ同じ場所にあるように見える。「龍郷町誌」によると、鍛冶屋跡があるという。「辞典」によると「グスク」と読む。「龍郷町誌」によるとゴスコと読む(龍郷町誌内でも、遺構であるグスコと字であるゴスコでは、呼び方が微妙に違うが、同一性に疑いを持つほどではなかろう。)。地番は1296〜1337番地まである。場所はここら辺になる。 | |
城作 | 城ン作 | 龍郷 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 字図を見る限り、城から北西方向にあるようだ。「辞典」以外では「城ン作」と表記されている。同書によると、「シロサク」と読む。「龍郷町誌」によると、グスクンサクと読む。地番は1491〜1522番地まである。場所はここら辺であろうか。 | |
スク | 龍郷 | 「論文」 | × | 「論文」小字名一覧に名前が見える。総図の字番号36が総図上はスクとあるのでこのことであろうか?もっとも、小字図ではスフであるし、「龍郷町誌」では又フとあり、錯綜甚だしい。一先ずグスクとして扱う。地番は1665〜1690番地まである。場所はここら辺であろうか。 | ||
山城 | 久場 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「龍郷町誌」の字図にも名前が見える。同誌によると、ヤマグスコと読むようだ。かつてはヤマグスクゴーという地域があったようだ。地番は442〜496番地まである。場所はここら辺周辺の尾根沿い西側部分であろうか。 | ||
グスク | 久場 | △ | 「龍郷町誌」にて紹介されている。掲載地図を見ると、集落のすぐ北にある山の麓辺りに見える。らしき小高い場所はあったが、自信はありません。場所はここかな。 | |||
タアグスク(高城) | 瀬留 | △ | 「龍郷町誌」にて紹介されている。掲載地図を見る限り、瀬留集落北西の山中腹辺りを指しているように見える。神山という紹介なので、山全体を指す可能性もある。掲載地図で指している場所はここら辺。 | |||
城 | 浦 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「龍郷町誌」の字図にも名前が見える。同誌によると、集落の中央部で、木立に囲まれた場所をいう。現在は公営住宅がある。かつてはトネヤと称する広場であり、神高い場所であったようだ。「辞典」によると、「グスク」と読む。地番は366−1〜435番地まである。「龍郷町誌」で指す場所はここになるが、小字としてはもう少し広い範囲になる。 | ||
己城 | 弓城 | 浦 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」「龍郷町誌」の字図では己城とあるが、「辞典」及び「龍郷町誌」第3章第5節大字と小字では弓城とあり、読みは「ユミグスク」「ユングスク」とある。発音を信じるならば、弓城なのであろうが、「龍郷町誌」所収の字図及び役場で入手した字図の表記がいずれも己城とあるので、一先ずそちらを基準とする(もっとも、小字図を見ると己ではなく已に見えるが。)。「地名考」では宇城とあるが、さすがに誤記と思われる。地番は小字図を見る限り、543〜648番地まであるように見えるが、換地処分がされほとんどの地番が閉鎖されたようで、図に乗っている番地は数えるほどしかない。場所は字図と上記地番に該当する住所をgoo地図で調べたところ、ここら辺になるようだ。 | |
石城 | 石ノ城 | 浦 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「龍郷町誌」の字図にも名前が見える。「地名考」では石ノ城とある。「龍郷町誌」によると、山の頂上を指すようだ。「辞典」によると、「イシグスク」と読む。地番は858〜890番地まである。浦の南西部の中で山頂と言える場所とするとここら辺であろうか。小字図を見る限り、小字を東西に流れる川があるように見える。 | |
城 | グスク | 大勝 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「龍郷町誌」にも紹介されている。郵便局や駐在所近くの墓地のことを言い小字も城となる。同誌によると、平家の落ち武者が攻めてくるのを、ここに城を作って応戦したという話が伝わっているという。「地名考」では入津城という字があるように見えるが、入津と城の間にスペースを入れ忘れただけであろう(大勝全図を見ると小字番号19が入津で同20が城であるので。)。地番は1166〜1174番地まである。場所はここ。 | |
小宿 | 大勝 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「辞典」によると、「コシュク」と読む。「龍郷町誌」によると「クスク」と読む。地番は1675〜1704番地まである。小字図を見ると、川が流れているようだし、周辺の小字の形状からして、場所はここら辺であろうか。もっとも、国土地理院発行の地形図やバス停等の表記を見る限り、上記場所は小字川内のようにも見える。集落としての川内と小字川内の位置は違うのか、管理人の間違えなのかは何とも分かりません。 | ||
杉俣 | 大勝 | 「地名考」「辞典」 | × | 龍郷町のグスク地名が載っている「論文」にはグスク地名としての紹介がないが、元は「グスクマタ」と読んでいた可能性があると思うので、グスク地名として扱います。読みは「龍郷町誌」によると、「スギマタ」である。地番は2103〜2116番地まである。場所はかなり自信がありませんが、何となくここら辺かな。 | ||
ゴーリャグスク | 中勝字下ゴリヤ? | △ | 「龍郷町誌」で紹介されている。ビッグU近く、大美川と中勝川の合流地点北側にある小丘をいう。盗賊の城があったところであり、戦があった場所だという。場所はここ。「龍郷町誌」の戸口に関するページで紹介されているが、各種地図、戸口字図や中勝絵図を見る限り、場所は中勝にある小字下ゴリヤにあるように見える。 | |||
グスク | 戸口 | ○ | 「龍郷町誌」で紹介されている。中戸口公民館の少し後方にある横に長い小丘のようである。かつて戦があったようで丘の上から骨が出土したという。場所はここ。 | |||
戸山ヒラキ城遺跡 | ヒラキヤマ | 戸口字上天川 | 不明 | ○ | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。戸口ではなく戸山とあるのは誤記なのかそれで正しいかは判断しかねる。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」では平木山として登録されている(若干、指し示す場所及び範囲に疑問はあるが。)。「龍郷町誌」ではヒラキヤマと紹介され、平家の城があったという。場所は、戸口小学校の北にある山であり、中腹には厳島神社がある。なお、管理人としては、これは城(しろ)を城(グスク)と呼んでいるパターンではないかという疑念を強く持っているが、一先ずグスクとして扱う。場所はここ。 | |
戸口城 | 戸口字池野 | 城郭跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。しかし、どう考えても左記データベースで指す場所は上記ヒラキヤマそのものである。なお、「奄美大島グスク分布地名表」にある戸口城は下記屋々勝城跡を指し示しているように見える(ただし、説明書きを見ると、平家落人の行盛の居城とあるので、ヒラキヤマの説明にも見える。)。グスクとして扱うかは、ヒラキヤマと同じ場所であるならば戸山ヒラキ城遺跡と被るので数える必要はないし、屋々勝城跡と同じ場所であるならば下記記載のように屋々勝城跡はグスクとして扱わないので、いずれにせよグスクとしては数えません。 | ||
松当城跡 | 戸口大三田 | 城郭跡 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。集落の東、港に面した山にある。「鹿児島県の中世城郭跡」に記載があるのみであり、字名としても呼称としても他の文献等で見つけることができないので、グスクとしては扱わず、紹介に留める。なお、天城町に松当城というグスクはある。 | ||
屋々勝城跡 | 戸口字眞ら勝 | 城郭跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。データベースの地図を見る限り平行盛神社のことを指すようだ。「龍郷町誌」によると、かつてはティラヤマと呼ばれていたことから、グスクと呼ばれていた可能性もありそうであるが、現状ではそのような呼称は確認できないので、グスクとしては扱わない(そもそも、左記データベースが参照した文献が分からない。管理人としては、本当にそのような名称があるのか疑っている。)。なお、「奄美大島グスク分布地名表」にある戸口城は、上記のように該当地図を見る限り、この屋々勝城跡を指しているように見えるが、説明文を見ると戸山ヒラキヤマのことを言っているようにも見える。 | ||
吉見城跡 | コミグスク | 戸口字川渡 | 城郭跡 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「龍郷町誌」によると、ナガネと呼ばれる山並の頂をコミグスクという。コミグスクより西側にある頂はオデと呼ばれ、両者の間にある尾根には堀切があり、祭りをしたという痕跡があるという。また、旧暦4月の願立てのときにはウンメ神様が集まり、ハッサンと呼ばれる祭りをする場所であったという。堀切があるようだから城跡と分類されているのであろうか。場所はここら辺。 | |
ウスクマガリ | 屋入 | × | 「龍郷町誌」によると、玉ン崎とミキュン崎の間の地点をウスクマガリという。ウスク名がついているのでグスクとして扱う。場所はここら辺。 | |||
城(グスク) | 赤尾木グスク | 赤尾木 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「龍郷町誌」の字図にも名前が見える。「龍郷町誌」によると、詳しい調査はされていないので実体は不明とのことである。かつてホウノセ神社があったという伝承があるようだ。場所は集落南東の大きな煙突が二つあるうちの東側周辺になる。少し高台にはなっているが、現在は単なる畑と林があるのみである。地番は1104〜1154番地まであるように見える。遺構としてのグスクはここ。赤尾木字図を見る限り、小字城の位置も前記遺構としてのグスク周辺のように見える。 | |
宿瀬 | スクズ | 赤尾木(加世間地区) | 「論文」「辞典」 | × | 「龍郷町誌」の字名表にも名前が見える。加世間の南側になるようだ。「辞典」によると、「シュクセ」と読む。「龍郷町誌」によると、「スクズ」と読む。同誌が指し示しているスクズと呼ばれる畑の位置を見ると、狭いながらも尾根と尾根に囲まれた場所にあるように見える。地番は1831−1〜1850番地まである。畑としてのスクズはここ(もちろん小字宿瀬内にある。)。 | |
ウスクメ | 赤尾木(加世間地区) | × | 「龍郷町誌」を見るとソネ地名(海底地形名)にウスクメというのがあり、宇宿前という意味だという。同誌所収の加世間民俗地図を見ても、該当場所が発見できないので場所は不明(見落としたかな?)。海底地形ではあるが、グスク地名であるし、宇宿の前という意味ならば、陸地に宇宿という場所があるということなので、グスクとして扱う。もっとも、同誌の加世間地区欄で宇宿地名は発見できない。 | |||
小宿 | 赤尾木 | 「辞典」 | × | 「辞典」にのみ名前が見当たる。読みは「コドマリ」とある。しかし、龍郷町で入手した赤尾木字図及び小字図を見ても「龍郷町誌」を見ても、いずれも「小泊」という小字及び地名(地区)しか発見できない。同誌によると、4軒ほどのマシュタキ(塩炊き)小屋があったという。海沿いにある地区であることから港を意味する泊が語源かもしれない。元は小泊だった可能性が低くないように思えるが、「辞典」で「小宿」とあるし、元々はそういう表記だった可能性もあるので、グスクとして扱う。地番は1732−1〜1756番地まである。地名(地区)としての小宿の場所はここ。 | ||
ゴスコノ | 芦徳 | × | 「龍郷町誌」で紹介されている。コシ山の八合目にあるやや平坦な場所であり、グスクとの関連性が指摘されている。名称及び場所の状況からグスクとして扱ってもいいように思われるので、グスクとして扱う。場所は多分ここ。確かに平坦地があるように思われる。 | |||
奄美市(住用)〔グスク数9(踏破数2・確認数1)〕 | ||||||
石原グスク | 石原 | × | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。展望台になっているとのこと。住用総合支所で話を聞いたところ、石原に展望台はないが、滝ノ鼻山の近くにあるゴミ捨て場(?)ならば展望が良いので、そこかもしれないとのことであった。道が急すぎて管理人の原付では進入できなかったが、説明を受けた場所をgoogleの上空写真で見たところ平坦地っぽいところがあったので、ここであろうか。 | |||
城ノ鼻 | 石原 | × | 山間の対岸の岬を城ノ鼻(グスクノハナ)と呼ぶ。元禄時代に作成された国絵図及び付属資料を見ると「城のはなれ」とある。岬を意味する鼻というよりは、本来は離れた場所という意味なのかもしれない。住用総合支所で話を地名の由来を聞いたところ、城地区(東城地区)に行くための道を意味すると思うという説明であった。なお、城ノ鼻の北にある地名はスタルトビラと言い、これは須垂地区(東城地区の旧名)への入口という意味らしい。とすると、いずれも城地区(東城地区)から見た方向を示す地名なのであろう。グスク名がついているので、グスクとして扱います。 | |||
グスク | 西仲間 | 墓 | × | 「神と村」で紹介されている。ある屋敷庭にあった小石と土で盛られていた拝所であり、八月踊りの舞台であったという。 | ||
城田 | グスクタ | 川内 | 散布地 | 「地名考」「論文」「辞典」 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。データベースの地図を見ると集落西側に山の尾根沿い周辺を指すようである。訪れた感じでは川があり、周囲は水量が豊富そうなので、水田があったのであろうか。もっとも、現在では果樹等が栽培されている。地番は954〜982番地まである。上記データベースや左記ページ内で示した位置とは若干違うが、川内絵図や城田の小字図を見る限りは、ここら辺が小字城田になるような気がする。 |
城 | 城 | 不明 | 「論文」「辞典」 | ? | 「地名考」ではそもそも大字城の項目がない。「論文」によると、山際の平坦面、住宅跡畑地であり、聖地視されているとのこと。総図及び小字図を見ると、城公民館(へき地福祉館)周辺であることは間違いない。字内ではない気がするが、聖地視されているのは集落北側のイキイビラと呼ばれる場所のことであろうかか?地番は1−1〜51番地まである。場所はここら辺になる。 | |
城田 | 城 | 「論文」「辞典」 | ○ | 「地名考」ではそもそも大字城の項目がない。「論文」によると、川沿の平坦面で耕地とのこと。地番は971〜985番地になる。場所はここら辺になる。総図を見る限りは、山の斜面まで含まれているように見える。訪れてみたところ、地形図どおり山と畑があるのみである。山と川に挟まれた区画にかつて田んぼがあったとするならば、城田と呼ばれてもおかしくない。 | ||
グスク | 城 | ? | 「神と村」で紹介されており、砂丘の一区画のようである。グスクは墓であるという管理人の説からすると、城集落の西端に墓地があり、墓地の更に西端はトウグチといい、ノロの拝所跡があるそうなので、ここであろうか?墓地の位置は小字金久になると思われるが、小字城と近すぎるので、その砂丘の一区画を小字城とは別のグスクとして扱うには違和感がある。ひょっとしたら、上記小字城内にあるのかもしれない。しかし、小字城内にあるかは現時点では不明なので、一先ず別グスクとして扱う。 | |||
住用グスク | 城 | × | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。青按司の居城であったらしい。上記グスクらと同じものなのかは不明なので、別グスクとして扱う。 | |||
宇宿 | 和瀬 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 「論文」によると、山際の平坦面で、住宅跡耕地とのこと。和瀬村全図を見る限り、サンゴ山南東にある山の山頂から海へと三角形に近い形で小字宇宿があるように見える。地形図を見ても、とても住宅跡耕地にも見えないし、平坦部があまりあるようには見えない。地番は386〜453番地まである。意外に1つ1つの番地は面積が小さいように見え、地目上は畑になっているものがそれなりにある。また、道もあるように見える。場所は多分ここ及びここから南部分。 | ||
大和村〔グスク数11(確認数5)〕〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
国直グスク | グスク・グスクヤマ | 国直 | 城郭跡 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。所在地は小字城になる。麓には国守神社がある。 |
脇の城 | 脇之城・脇城山 | 恩勝 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 「論文」では脇之城とある。「辞典」によると、「ワキンシロ」と読む。一応上記の腰シ城とは読みが別と思われるので、別グスクとして扱う。「大和村誌」では集落の西側の山を脇城山と呼ぶと紹介しているが、名称が似ているので、同一グスクとして扱う。「大和村誌」によると、「浦内沿革誌」では神山と紹介されているが、既に脇城山と呼ぶ人も神山と認識している人もいないとのこと。「地名考」では「腰シ城」とあるが、他の文献では見ないし、同書は誤記も多いことから、恐らく脇の城の誤記であろう。 | |
グスコ | グスク | 大棚 | 「地名考」「論文」「辞典」 | △ | 「大和村誌」でもグスクという地名が見える。「地名考」だけ「グスク」と表記されている。「論文」によると、集落内平坦面で住宅地とのことだが、「大和村誌」によると、集落の東端の丘陵であるといい、説明が食い違う。グスクが二つある可能性も否定できないが、一先ず一つとして数える。 | |
池城 | 大棚 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」によると、集落内平坦面で住宅地とのこと。なお、「大和村誌」によると、大棚川を境にして東側の集落を池田というので、何かしら関連があるだろうか?「辞典」によると、「イケグスコ」と読む。 | ||
戸城 | 大棚 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」によると、集落内平坦面で住宅地とのこと。「辞典」によると、「トグスコ」と読む。 | ||
宇宿田 | 大棚 | 「地名考」「辞典」 | × | 「辞典」によると、「ウスコダ」と読むように、グスク地名と思われるので掲載する。 | ||
ウッスク | オッセク | 大金久 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「雑記集成(9)」によると、方言ではオッセクと呼んでいるようだ。 | |
下ウッスク | シャーオッセク | 大金久 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「辞典」によると、下は「シャア」と読む。「雑記集成(9)」によると、ウッスクの下方に位置するとのこと。 | |
杉ン作 | 大金久 | 「地名考」「辞典」 | × | 「辞典」によると、「スギンサク」と読む。グスクンサクというグスク地名もあることからグスクの可能性はあるように思われる。グスクとして扱うかは一先ず保留。 | ||
グスコ | グスク・里グスク | 戸円 | △ | 「大和村誌」によると、東側(正確には東南東ぐらいか)から集落内に突き出た小高い丘陵部の先端部をグスコと呼ぶとのこと。頂上は広場になっていて、大きな石が三つあり、祈祷払いも行われてたという。「日本の神々 神社と聖地 13 南西諸島」によると、里のグスクという。 | ||
グスク | 前里グスク | 戸円 | △ | 「日本の神々 神社と聖地 13 南西諸島」によると、前里集落の背後に控える山が前里のグスクだという。 | ||
ゴスク田 | 今里 | 「地名考」「論文」「辞典」 | × | 「論文」によると、山側の斜面とのこと。 | ||
宇検村〔グスク数10〕〔グスク判断保留数5〕 | ||||||
湯湾グスク | 湯渡名グスク | 湯湾 | ? | 「遺跡ウォーカー」には登録されている。「図説 沖縄の城」で紹介されているようだ。役場横の山を指すという話もあるが、管理人としてはグスク名称があるのか疑問なので、グスクとして扱うかは保留。もっとも、ここを指すかは不明だが、集落内に小字城は存在する。 | ||
城 | 湯湾 | 「地名考」「辞典」 | × | 上述のように上記湯湾グスクとは別に扱う。 | ||
野城 | 湯湾 | 「辞典」 | × | 他の文献では見当たらない。 | ||
向野城 | 湯湾 | 「地名考」「辞典」 | × | 読みが分からないので、何とも言えないが、野城と位置的に関連するのか?コウノと読むにせよムカイノと読むにせよグスク地名としては聞かないパターンである。違う読みか?他の小字ではムキと読んでいるパターンがある。 | ||
池城 | 芦検 | 「地名考」「辞典」 | × | |||
田城 | 田検 | 「地名考」「辞典」 | × | |||
杉メ | 杉又 | 部連 | 「地名考」「辞典」 | × | 「辞典」では杉メとあるのが、「地名考」にある杉又だろうか?杉又だとすると、元はグスクマタといった名称であった可能性があるので掲載しておく。グスクとして扱うかは保留。 | |
城又 | 名柄 | 「地名考」「辞典」 | × | |||
百城 | 百城甲乙 | 平田 | 「地名考」「辞典」 | × | 「地名考」では甲乙が付く。 | |
杉 | 平田 | 「地名考」「辞典」 | × | 「杉」単独だと微妙だが、グスク地名の可能性もあるので参考までに掲載しておく。グスクとして扱うかは保留する。 | ||
杉卸口 | 平田 | 「地名考」「辞典」 | × | 何て読むのか不明だが、「杉」という字があるのでグスク地名の可能性を考慮して掲載しておく。グスクとして扱うかは保留する。 | ||
杉卸口平 | 平田 | 「地名考」「辞典」 | × | 上に同じ。 | ||
城平 | ゴスコヒラ | 阿室 | 「地名考」「辞典」 | × | 「地名考」にゴスコヒラとあるのが、「辞典」にある城平と思われる。 | |
スギント | 阿室 | 「地名考」「辞典」 | × | 他の字では城当などと当て字されるグスクドー・グスクトーと言ったグスク地名と同じ可能性があるので紹介する。グスクとして扱うかは保留。 | ||
ゴスコン | 生勝 | 「辞典」 | × | 他の文献では見当たらない。グスク地名と思われる。 | ||
瀬戸内町〔グスク数42(踏破数17・確認数8)〕〔グスク判断保留数3〕 | ||||||
西古見グスク | 海(ウム)城 | 西古見 | 城郭跡 | 「論文」 | ○ | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。按司居城とのこと。「論文」でもグスク小字地名として海城が紹介されている。もっとも、「地名考」では小字海城は見当たらない。「論文」によると、独立丘頂上に平坦面がある。また、平家の伝承があり、柱穴を発掘したという。 |
ノログスコ | 花天 | △ | 瀬戸内町立図書館・郷土館で聞いたところによると(町健次郎さん?) 、集落の入口(東端)の南東にある山側をノログスコといい、聖域であるという。由来はノロが住んでいたからという。「瀬戸内町誌」によると、ヌログスコと呼ぶそうだ。なお、現在は畑となっているとのこと。 | |||
与助 | 久慈 | 「地名考」 | × | 「論文」のグスク小字地名では紹介されていないこともあり、一先ずグスクとして扱うかは保留。 | ||
城当 | 篠川 | 「地名考」「論文」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。同文よると、山腹の斜面だという。 | ||
浜城 | 浜グスコ・グスク | 阿室釜 | 「地名考」 「論文」 | △ | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。また、「神と村」でも紹介されている。長崎鼻の岬という場所がそうで、そこにある樹林区域が風葬所であったとのこと。その下の浜がグスク浜と呼ばれていたとのこと。 | |
城 | 阿鉄 | 「地名考」 「論文」 | ○ | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。同文では独立丘・厳島神社境内(?)と説明されている。「神と村」によると、神山から川を隔てたテラ山の裏下をグスクという。 | ||
グスクヒラナカ | 油井 | ○ | 「神と村」で紹介されている。村の拝所となっている屋根型墓があるとのこと。油井小中学校の北側にあるトゥル墓のことであろう。「瀬戸内町誌」によると、集落内で一番古い墓地であり、ユブシロシンヌヒャーという沖縄から来た豪傑が祀られているという。 | |||
コスコ田 | コスコ | 久根津 | 「地名考」 「論文」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。なお、同文の表記はコスコとあり、別の場所を指す可能性があるが、現段階では同一グスクとして扱う。。 | |
脇ノスク | 久根津 | 「地名考」 「論文」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。 | ||
クハ嶽ニグスク | グスク | 手安 | × | 所収の文献を忘れたのか、現地で聞いた名前なのか忘れたが、管理人が奄美を訪れた際に地図に記載したグスクに左記のグスク名が書き込まれていた。畑の中に石で囲われた場所があるという。文献等で裏付けが取れるまでは備忘録として掲載しておきます。したがって、グスクとしては現段階では扱いません。 | ||
城田原 | 嘉鉄 | 「地名考」 「論文」 | ○ | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。地元で聞いたところによると、集落北西にある山の東側麓とのこと。訪れた感じでは山麓には水が湧いており、田んぼを作るには適していたように思われる。なお、「論文」では城田原が四つあるようだが、同じ名前の小字が複数あるのは違和感があるし、地元で聞いても判然としなかったので、一先ず一つとして扱う。もっとも、それぞれが隣接していない別の場所にあるのならば、別グスクとして扱う必要があると思われる。 | ||
グスコ | 嘉鉄 | ○ | 瀬戸内町立図書館・郷土館で聞いたところによると、城田原の西側、集落の北西にある小丘をグスコと呼ぶとのこと。正確には付近にある井戸の名前が付いたグスク名らしいが、失念したということで、一先ず単なるグスコとして紹介。 | |||
浦底 | 蘇刈 | 「地名考」 | × | 「論文」でグスク地名として紹介されていないこともあり、一先ずグスクとして扱うかは保留。 | ||
グスコアタリ | 蘇刈 | ○ | 瀬戸内町立図書館・郷土館で聞いたところによると、集落の東端にある畑をグスコアタリといい、ここには家を建てないという。訪れてみると、確かに畑になっていた。なお、「瀬戸内町誌」でも少しだけ紹介されている。 | |||
城 | 網野子 | 「地名考」 「論文」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。山腹の斜面だという。 | ||
打杉 | 網野子 | 「地名考」 | × | 「論文」ではグスク地名として扱っていないので、グスクとして扱うかは保留。大和村にウッスクというグスク地名があるから案外グスク地名の可能性はあるか? | ||
城川 | 節子 | 「地名考」 「論文」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。「地名考」では正確には城□(文字が判別できずに転写できなかったということであろうか)という表記であるが、他の字名との比較から「論文」にある城川の可能性があるので、一先ず同一グスクと扱う。 | ||
勝浦スク | 勝浦ズク | 節子 | 「地名考」 「論文」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。「地名考」では勝浦スクであるが、「論文」では勝浦ズクとある。 | |
大和スク | 節子 | 「地名考」 「論文」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。 | ||
平ズキ | 平スク | 節子 | 「地名考」 「論文」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。「地名考」では平ズキだが、「論文」では平スクとあるのでグスクとして扱う。 | |
グスク | 実久 | 「論文」 | ○ | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。三次郎神社をいうらしい。もっとも、(グスク)という括弧書きで書かれており、グスク地名なのか管理人には不明である。「地名考」にはらしき名前は見当たらない。「奄美-自然・文化・社会-九学会連合奄美調査委員会編」によると、神社背後の山をウボツヤマと呼ぶという。一先ず、グスクとして扱う。 | ||
グスコ崎 | 実久 | × | 「加計呂麻」掲載地図に名前が見える。集落の北東にある岬のことをいう。 | |||
グスク | 芝 | 「論文」 | △ | 「論文」の「グスクヤ」の項目で、段畑にあった見張所をグスクというと紹介されている。地元の古老等に聞いたら、グスクとは言わないが、見張所は確かにあったという。 | ||
グスクヤ | グスコンヤ | 芝 | 「論文」 | × | 「加計呂麻」でも紹介されている。屋号なので、グスクとして扱うかは保留。なお、集落の南端にある。「加計呂麻」によると、山際の広い敷地で、現芝田家。琉球家の家筋だという。 | |
グスコ | 薩川 | 「論文」 | ○ | 「論文」で小字地名として紹介されている。また、「加計呂麻」でも紹介されている。集落の中を流れる川から北側、薩川小学校・公民館がある場所周辺をグスコという。なお、集落の北側をサトといい、川より南側をミザトという。 | ||
ハナグスコ | 薩川 | 「論文」 | ? | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。「地名考」はそもそも大字薩川の項目自体ないので確認ができない。区長や古老に聞いても知らないとのこと。集落の南東にある平良々崎をハナといい、ヤンチュの墓があったそうなので、ここを指すのかもしれない。ただし、地図で見る限り、字は瀬武になる(古老は薩川だと言っていたが)。 | ||
ジャグスコ | 薩川 | 「論文」 | ? | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。区長や古老に聞いても知らないとのこと。グスコ集落はウィーグスク(上城)・シャーグスク(下城)とに言い分けられるようなので、シャーグスコのことを指すのかもしれない。一先ず、上記グスコとは別グスクとして扱う。 | ||
ウスコント | 薩川 | 「論文」 | △ | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。集落の西側、取水場のある場所の道路を挟んだ反対側を言うらしい。古老によると、昔はそこで畑仕事をしていたそうだ。なお、由来を聞いても誰も知らなかった。元はグスクトーぐらいの呼び名だったのだろうか?トーは琉球方言で平坦地を指すが、見た感じそういう場所もなさそうでもなかった。 | ||
グスク | グスコ | 瀬武 | △ | 「加計呂麻」によると、集落の北側にある小丘をいう。高千穂神社からは少し東北東にある。グスクから集落を見下ろすと、アシャゲが真っ正面に見えるようだ。 | ||
イキグスコ | グスコ | 阿多地 | ○ | 「加計呂麻」によると、阿多地集落はかつてイキグスコ・グスコと呼ばれていたようである。一先ず、グスクとして扱う。 | ||
グスコン | 嘉入 | △ | 「加計呂麻」によると、木慈に行く山道の途中にあり、ヨバンに与えられた土地という。地図を見る限り、集落の北にあるようだ。この方のブログによると、芋畑だという。集落後方に2つある谷のうちの西側の奥にあるようだ。 | |||
グスコ | 知之浦 | ○ | 「加計呂麻」によると、シューハマの背後(集落奥の東側手前)にある小高い山をグスコという。地元の古老によると、攻め立てられた島津公と琉球のノロが切腹した場所だという。現在はその古老が平坦部にマンゴー等を栽培している。なお、切腹した場所は、畑の奥にある大木の更に奥にあるという。もっとも、「加計呂間」では切腹したのは、唐人と紹介されている一方、「瀬戸内町誌」では、グスコではなく、神社のあるムリヤマで村人が支那人に殺されたとある。「加計呂麻」によると、骨の入ったカメがあるという伝承があるとのこと。「瀬戸内町誌」によると、黒松の根元に墓があるとのこと。 | |||
グスコ | 城 | 俵 | 「地名考」 「論文」 | ○ | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。「加計呂麻」の地図を見ると、集落の南半分、小学校や中学校がある場所周辺をグスコと言うようだ。余談だが、村人によると、中学校の学校通信をグスクと言うらしい。 | |
今城 | 俵 | 「地名考」 「論文」 | ○ | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。同文によると、山際の墓地を言うようだ。「加計呂麻」の地図を見ると、すぐ近くにグスコ屋敷跡があるから、集落の南端にある墓地のことだろうか。 | ||
ウスクント | 瀬相 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。諸鈍城といわれ、平資盛の居城ともと紹介されている。この説明だけ見ると、瀬相ではなく諸鈍のような気がしてならないが、一先ず瀬相のグスクとして紹介する。 | ||
グスコ | 西阿室 | 「論文」 | ○ | 「加計呂麻」でも紹介されている。集落の少し北側にあり、かつての船着き場だったという。集落の北側だと山方面になるのだが、かつてはここまで海だったのか、あるいは川を遡上した場所にあったのか。ただし、嘉入集落で聞いたところ、集落の川を挟んで南東にある慰霊碑のある山のうち、大きい岩場をグスコと呼ぶとのこと。訪れてみたところ、確かにグスクらしさがある。 | ||
グスコマタ | 西阿室 | 「論文」 | × | 「論文」でグスク小字地名として紹介されている。グスコが上記場所だとすると、山田川沿いにある地名であろうか。 | ||
グスコ | 於斎 | ○ | 「加計呂麻」によると、集落を三つに分けた内、一番西側の集落をいう。グスコ集落内にある斉藤家はグスコンヤというとも紹介されている。 | |||
グスコ | グスク | 渡連 | 「論文」 | △ | 「加計呂麻」でも紹介されている。集落入口(西側)から見て南側にある山をいう。「論文」によると、琉球軍指揮のマブリシュ(俎上陸)の幕と石垣があったという。「加計呂麻」でも、石垣があると書かれている。麓の家で聞いたところ、昔は見張所があったという。また、かつては、その家が畑として利用していたそうだ。 | |
アラグスクヤマ | 諸鈍 | △ | 「加計呂麻」で紹介されている。サト集落(諸鈍集落の東側、安脚場方面入口)北方にある山のことをいうようだ。山中には祭祀をしたような跡があるという。 | |||
諸鈍城 | フワムテ | 諸鈍 | 城郭跡 | × | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。平資産の居住跡と伝えられている。管理人としては城(しろ)を城(グスク)と名付けたのではという疑問があるので、一先ず、グスクとしては扱いません。 | |
徳浜城 | 徳浜 | 城郭跡? | × | 「奄美大島グスク分布地名表」に記載あり。仮称とされているように元来からグスク名称が付いているとは思えないので、グスクとしては扱いません。なお、堀切を有するようなので城郭跡か? | ||
城亦 | グスクマタ | 請阿室 | 「地名考」 「論文」 | × | 「論文」ではグスク小字地名として紹介されている。地元で聞いても知っている人を見つけられなかった。 | |
グスク | 請阿室 | 「論文」 | ○ | 「加計呂麻」でも紹介されている。公民館より南側の集落のことをいう。旧ミャーやテラヤシキはここにある。 | ||
グスクバカ | ゴスコ | 池地 | 「論文」 | ○ | 「加計呂麻」及び「請島ノート」でも紹介されている。集落内の道路を挟んで二つある墓地のうち、東側の墓地の更に東側半分をグスクバカという。山川石の墓が多い場所だという。「加計呂麻」によると、グスクバカから公民館方面への道をグスク道ということから、この辺りをグスクと呼んだことが知られるという。。 | |
グスクバテ | 池地 | × | 「請島ノート」で紹介されている。集落の南南東にある山をいうらしい。かつての見張所であり、堀切もあるらしい。島の北側のみならず南側も見え、徳之島が見えるという。なお、バテとは畑という意味であり、近くにはグジバテという場所もある。 | |||
グスノキ | 与路 | 「論文」 | × | グスク小字地名として紹介されている。 | ||
グスコ | ゴスク | 与路 | 「論文」 | ○ | 「加計呂麻」及び「与路島ノート」でも紹介されている。「加計呂麻」と「与路島ノート」で指している範囲が微妙に違う気がするが、集落の南西部を指す点は共通する。「与路島ノート」で指し示す範囲は、公民館の前の十字路から南西部分を指しているように見える。 | |
奄美市(名瀬)〔グスク数14(踏破数3・確認数6)〔グスク判断保留数2〕 | ||||||
ヤマトグスク | シュパマ(塩浜)遺跡 | 金久 | △ | 「名瀬市グスク報告書」で紹介されている。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」では金久塩浜として登録されている。尾根の先端部に厳島神社があった(現在は高千穂神社に合祀)。訪れたところ、土砂崩れにより神社への道が塞がれていた(2011年8月時点)。場所は大体ここ。 | ||
グスク | 有屋グスク | 有屋 | 散布地 | 「地名考」「辞典」 | △ | 「名瀬市グスク報告書」で紹介されている。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。集落南側に位置する山地の標高60〜90m辺りにあるらしい。グスク部分への進入路は分からなかった。場所はここら辺。マピオンの地図で見る限りは大字浦上にあるようにも見える。旧名瀬市内は新しい町が出来たり区画整理がされたりして場所の比定が難しいが、有屋総図を見る限り字城はこの有屋グスク及びその周辺になるように見える。なお、字城は全て換地処分がされたようだが、地番は56〜92番地になる。 |
城田 | 浦上 | 「地名考」「辞典」 | ○ | 「名瀬市グスク報告書」で紹介されている。浦上有盛の南方、大島工業高校周辺を指すとのこと。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」でも大島工業高校の敷地を指している。字城田の地番は1411−1〜1512番地まである(ただし、公図を見ると換地処分がされたのかほぼ消失している。)。もっとも、大島工業高校の住所は1393番地であり、地番の数字に当てはめると字前里になるはずである(地番と住所が一致するとは限らないが。)。そうすると、ここら辺が字城田になるであろうか。浦上総図を見ても字城田の範囲は主に山側になるように見える(とは言っても、大島工業高校敷地が全く含まれないわけではないのだろう。)。 | ||
浦上有盛 | 浦上グスク | 浦上 | ○ | 「名瀬市グスク報告書」では浦上有盛遺跡として紹介されている。「鹿児島県埋蔵文化財データベース」では旧名「浦上グスク」として紹介されている。名瀬市の他の遺跡と同様、城跡をグスクと名付けたが、地元ではグスク名で呼ばれていないからグスクとして呼ぶのは止めたということでしょう。もっとも、テラとも呼ばれているから、グスクとして呼ばれていたとしてもおかしくはない。グスクとしては扱いませんが、参考までに載せておきます。 | ||
城又 | 小宿 | 「地名考」「辞典」 | × | 地番は333〜369番地になる。場所は自信はないが、概ねここら辺だと思われる。小宿総図を見る限り、少なくとも大浜へ向かう道のヘアピンカーブ付近であろう。 | ||
小宿グスク | ユカリッチュコウエン | 小宿字城 | 城郭跡 | 「地名考」「辞典」 | △ | 「名瀬市グスク報告書」で紹介されている。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。集落東、小宿中学校の東の山。字城の地番は2751−1〜2785番地になる(なお、小字図を見ると、国土調査により地籍図へ移動したとのこと。)。遺構としてのグスクの位置はここ。字城田の範囲は小宿総図や地番に該当する住所を調べた感じ小宿中学校東側の山側一帯から麓までを指すように見える。 |
知名瀬城田 | 知名瀬グスク | 知名瀬城田 | 城郭跡 | 「地名考」「辞典」 | ○ | 「名瀬市グスク報告書」で紹介されている。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。「地名考」「辞典」にも小字城田の名前が見える。「名瀬市グスク報告書」ではいわゆる知名瀬グスクと紹介されているが、データベースでは旧名「知名瀬城」と紹介されている。知名瀬グスクという名称で呼んでいる人が結局の所確認できなかったということだろうか?もっとも、小字名が城田なので、グスクとして扱って問題ないと思われる。「名瀬市グスク報告書」によると、縄文後期〜晩期の土器や住居跡と考えられる遺構が観察できたとのこと(もっとも、今は確認できないらしい)。訪れた感じでは、何の変哲もない小丘にしか見えない。周囲も現在は田んぼは見当たらないが、かつてはあってもおかしくないかなという印象である。地番は2103〜2181番地になる(ただし、ほとんどが換地処分がされているようだ。なお、地番の数字に該当する住所はもう少し北側になるようだ。)。場所はここら辺。 |
上川城 | 知名瀬上川グスク | 知名瀬字上川 | 城郭跡 | × | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。按司がいたようだが、現在は所在地不詳とされている。「名瀬市グスク詳細分布調査報告書」でいう按司屋敷とは別のだろうか?データベースは城(しろ)と城(グスク)を使い分けているように見え、これはグスク名として紹介しているように見えるが、イマイチ判然としないので、一先ずグスクとしては保留。なお、字上川の地番は2182〜2217番地になる。偶然なのか字城田と公図番号が隣同士であり、地図上も隣接している。なお、知名瀬総図等を見る限りは、小倉神社周辺が字上川になるように見える。 | |
根瀬部城田 | 城田・グシク・グシクバテー | 根瀬部城田 | 「地名考」「辞典」 | ○ | 「名瀬市グスク報告書」で紹介されている。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。「名瀬市グスク報告書」ではいわゆる根瀬部グスクとして紹介しているが、データベースでは旧名根瀬部城となっている。もっとも、知名瀬城田と同様にグスクとして扱って問題ないと思われる。訪れたところ、山は浄水施設が建設されており、特にこれといった遺構は確認できなかった。地元で聞いたところ、平地を含めた周囲をグスクダといい、昔は田んぼがあったという話を聞いた。周辺の平地の小字も田の名前が付くのが多く、城田も形状を表した地名のように思われる。字城田の地番は580〜712番地になる。場所はここら辺。 | |
小宿又 | 有良 | 「地名考」「辞典」 | × | グスク地名であろう。地番は944〜988番地になる。場所はかなり自信はありませんが、ここら辺?有良総図を見ると、小宿又は有良中央の西寄りに位置しているので大きく外してはいないと思う。 | ||
名瀬勝グスク | 名瀬勝 | △ | 「名瀬市グスク報告書」で紹介されている。集落の北東側にあり、現在は畑地となっているようである。乱れ戦伝承があり、ヤマトバテとも呼ばれているとのこと。なお、グスクとして紹介されているが、グスク地名があるわけではないようである。一先ずグスクとして扱う。場所はここ。訪れた印象では単なる畑と林である。 | |||
杉又 | シギマタ | 名瀬勝 | 「地名考」「辞典」 | × | 恐らく「スギマタ」と読むと思われるが、本来はグスクマタといったグスク地名の可能性があるので紹介する。「名瀬市グスク報告書」を見る限り、シギマタと読むようだ。グスク地名として扱うかは保留。地番は1779〜1839番地になる。場所はここら辺。又地形ではある。なお、前掲報告書によると、名瀬勝シギマタ(杉又)遺跡があり、通称タテヤマと呼ばれているとのこと。 | |
ハリ城原 | 朝戸 | 「辞典」 | × | 地番は1168〜1176番地になる。場所の比定は、総図にある川の本数と現在ある川の本数が違うように見えるし、総図とマピオン等で表示される朝戸の範囲が結構違うように見えるので、かなり自信はないのだが、ここら辺であろうか? | ||
朝戸大豆籠 | (旧)朝戸グスク | 朝戸 | 城郭跡 | △ | 「名瀬市グスク報告書」で朝戸グスクとして紹介されている。もっとも、「鹿児島県文化財データベース」では旧名朝戸城として紹介されている。名瀬の他のグスクと同様に城(しろ)を城(グスク)と呼んだパターンと思われるので、グスクとしては扱いません。参考までに掲載しておきます。データベースで消滅と書かれているように、訪れたところらしき場所の地形が消滅していたように思われた。 | |
ターダスク | タカグスク・伊津武城原 | 伊津武勝城原 | 城郭跡 | 「地名考」「辞典」 | △ | 「名瀬市グスク報告書」で紹介されている。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」では伊津武勝城原・タカグスクという名で登録あり。「遺跡ウォーカー」では伊津武勝グスクという名で登録されている。前記報告書によると、通称按司屋敷とも呼ばれる。また、曲輪、空堀等が構築され、かつては神社も建てられていたという。集落東にある山の尾根がグスクとなる。小字は城原になる。小字城原の地番は193〜297番地になる。遺構としてのグスクの場所はここ。 |
城田 | 伊津部勝 | 「地名考」「辞典」 | × | 地番は592−1〜737番地になる。場所はここら辺。伊津部勝総図及び小字城田の公図を見る限り、道路より山側が概ね城田の範囲になるように見える。 | ||
宇宿原 | 西仲勝 | 「辞典」 | × | 地番は1860〜1891番地になる。正確な場所は分かりませんが、概ねここ周辺ではないかと思う。 | ||
シロント原 | シロシト原 | 西仲勝 | 「辞典」 | × | 「地名考」にあるシロシト原と同じであろうか。元は城当原といった表記でグスクトウバルと読んでいたのが、シロントバルとなった可能性が無くはないので、参考までに掲載しておく。グスクとしては数えません。地番は1971〜1980番地になる。場所は宇宿原同様正確な場所は分かりませんが、概ねここ周辺ではないかと思う。 | |
中勝原テラ屋敷 | 西仲勝グスク | 西仲勝 | 城郭跡 | △ | 「鹿児島県文化財情報データベース」では西仲勝名称未定、旧名西仲勝グスクとして紹介されている。城跡ということで、かつては西仲勝グスクとして紹介していたが、グスク名称が確認できなかったということだろう。グスクとしては扱いませんが、参考までに掲載しておきます。「名瀬市グスク報告書」では名称未定遺跡とある。場所はここ。なお、同書によると、尾根全体を遺跡として考えておかなければならないとのこと。 | |
グスク | 前勝グスク | 前勝(西仲勝) | 散布地 | △ | 「名瀬市グスク報告書」で紹介されている。「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」にも登録あり。集落の西側にある山の尾根付近と集落奥部をグスクと称するらしい。前掲報告書によると、カミヤマと思われるとのこと。場所はここ。 | |
喜界町〔グスク数30(踏破数4)〕〔グスク判断保留数1〕 | ||||||
平家盛 | 早町字上ヶ田3番 | 城郭跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。城(しろ)ではあるが、グスク呼称があるわけでもグスク地名上に存在するわけでもないので、グスクとしては扱いませんが、参考までに掲載しておきます。 | ||
嶺城久 | 塩道 | 「地名考」 | × | |||
城久山 | 塩道 | 「地名考」 | × | |||
中城久 | 長嶺 | 「地名考」 | × | |||
城久平 | 嘉鈍 | 「地名考」 | × | |||
コスク | 花良治 | 「地名考」 | × | |||
如城久下 | 佐手久 | 「地名考」 | × | 字名が佐久手とあるが、誤植であろう。 | ||
城久畑 | 佐手久 | 「地名考」 | × | 字名が佐久手とあるが、誤植であろう。 | ||
七城 | 志戸桶増ケダ189 | 城郭跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。城(しろ)ではあるが、グスク呼称があるわけでもグスク地名上に存在するわけでもないので、グスクとしては扱いませんが、参考までに掲載しておきます。 | ||
川嶺(ハンミ)グスク | 志戸桶字川嶺 | 散布地 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。「喜界町誌」にもグスク時代の遺跡として紹介されている。訪れたところ、単なる傾斜地の畑であり、果たしてここでいいのか自信が持てないレベル。 | ||
城久山 | 志戸桶 | 「地名考」 | × | |||
ウスクガマ | 湾 | × | 「喜界町誌」を見ると、大字湾小字間寺にある水天宮の項目に(ウスクガマ1276)とある。現在の小字は間寺だが、かつての小字はウスクガマで番地が1276番地ということであろうか?それとも小字間寺1276番地にある水天宮をかつてはウスクガマと呼んでいたということであろうか?いずれにせよウスク地名であるし、聖地であるので、グスクとして扱う。 | |||
赤連城久 | 赤連 | 「地名考」 | × | 「雑記集成(9)」によると、城や旧墓地はないとのこと。東の縁語かとのこと。 | ||
上原ノスク | 赤連 | 「地名考」 | × | 「雑記集成(9)」によると、山手の畑地だという。 | ||
石城久 | 赤連 | 「地名考」 | × | |||
赤城 | 赤連 | 「地名考」 | × | 「雑記集成(9)」によると、方言名はアーニという。地名の特色として城と書かれている。 | ||
下城 | 赤連 | 「地名考」 | × | |||
長スケ | 中里 | 「地名考」 | × | グスク地名の可能性があるので、掲載しておく。一先ず、グスクとしては判断保留とします。 | ||
ヤヌンスク | 荒木 | 「地名考」 | × | |||
ゴスク原 | 荒木 | 「地名考」 | × | |||
中城クコシ | 手久津久 | 「地名考」 | × | |||
中城久上 | 手久津久 | 「地名考」 | × | |||
中城久 | 川嶺 | 「地名考」 | × | |||
スクノマシ | 羽里 | 「地名考」 | × | |||
城久 | 城久 | ○ | 大字であり、小字ではグスク地名は見当たらないが、グスクとして扱う。集落には城久遺跡群という大規模遺跡がある。 | |||
童城 | ワラビヌスク | 島中 | × | 「喜界町誌」にグスク時代の遺跡として紹介されている。かつて、遠見番が配置されていたという。 | ||
中城久 | 大朝戸 | 「地名考」 | × | 「喜界町誌」にグスク時代の遺跡として中城(ナースク)というのが紹介されている。同一のグスクであろうか?中城には遠見番がされていたという。 | ||
城久 | 大朝戸 | 「地名考」 | × | |||
ウチムスク | 坂嶺 | × | 「喜界町誌」によると、坂嶺集落背後標高35mの盛り上がった土地で昔城(グスク)と称される内容の土地だといわれ、琉球治下にあった頃はノロが集まり祭りをした神山であったと言われる。現在は土地改良事業がされたが、公園として整理され記念碑が建てられているという。かつて、遠見番が配置されていたという。 | |||
大城久(ウフグスク) | 伊砂 | 生産遺跡 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。伊砂には小字大城ノ又があるが、同じ場所とは断言できないので、別グスクとして扱います。グスクは二か所(AB)あり、いずれも集落の北東の小丘にある。下記の大城久と被るようにも見えるが、データベースでは分けられているので、それに従う。 | ||
大城久(ウフグスク) | ウフヌスク | 伊砂 | 散布地 | ○ | 「鹿児島県埋蔵文化財情報データベース」に登録あり。伊砂には小字大城ノ又があるが、同じ場所とは断言できないので、別グスクとして扱います。場所は、集落北東にある小丘の西側麓にある。 | |
大城ノ又 | 伊砂 | 「地名考」 | × | |||
土城久 | 伊砂 | 「地名考」 | × | |||
十島村(グスク数4・踏破数3) | ||||||
タカグスキ | 中之島楠木 | ○ | 下野敏見が執筆及び担当した「南日本の民族文化誌3 トカラ列島」・「日本の神社 神社と聖地 南西諸島」で紹介されている。楠木にあり近くにはオボヤどんがあるとのこと。住民によると、集落名にあるようにここら一帯がグスクであるとのこと。集落の北側にはテラがある。なお、タカグスキは集落北方の山である小城(コジョウ)・大城(オージョウ)の先にあるようである。小城にはかつて神社があったとのこと。タカグスキにあるかは分からないが、平有盛の墓が小城の北側にあるとのこと。 | |||
イシグスク | 中之島 | ○ | 「南日本の民族文化誌3 トカラ列島」・「日本の神社 神社と聖地 南西諸島」で紹介されている。島の東南(もっとも、下野敏見は字タカモトにあるというが、「十島村誌」の字名総絵図を見ると、字タカモトは北東にある。)の山中にイシグスクという岩があり、そこには神様がいて、付近の木などを伐ると祟ると言われているとのこと。地元で聞いた話では現椎崎牧場周辺の地名だとのこと。もっとも、牧場周辺は拓けた感じであり、そのような岩があるかは不明であった。もう少し東の廃道沿いには大岩があったが、ここを指すのかは不明。廃道の大岩については別ページ参照。 | |||
アマグスキ | 中之島 | ○ | 「南日本の民族文化誌3 トカラ列島」・「日本の神社 神社と聖地 南西諸島」で紹介されている。ゲーローの近く東区の港の上方にあるとのこと。地元で聞いた話では寄木集落北方の山地周辺の地名だとのこと。訪れてみると、単なる山であり、遺跡や聖地の類があるのかは微妙であった。もっとも、管理人の経験上アマグスク(天城)という名のグスクは、訪れてみると、何故かグスクらしさを感じさせないことが多い。ちなみに、上記本によると、ゲーローの近くにあるというが、地元で聞いた場所はゲーローの近くというには微妙である。 | |||
クスクノ浜 | 楠久浜 | 臥蛇島 | × | 「南日本の民族文化誌3 トカラ列島」でグスク地名として紹介されている。「十島村誌」の十島村の字名を見ると、クスクノ浜という字が見える。同誌の字名総絵図と国土地理院発行の地形図を見比べると、集落北東の崖に囲われた場所を丁度指しているように見える。なお、集落や神社等の聖地があった(今は無人島)のは北部であり、集落とは離れた場所にあることは確かそうだ。風葬墓跡でもあるのだろうか。集落位置と地形からして城跡ではないように思われる。もっとも、悪石島では集落と離れた海岸近くの小山が城跡ではないかとも言われており、可能性は無くはないのか。 | ||
ムグリスク | 根上岳 | 諏訪之瀬島 | × | 「十島村誌」によると、諏訪之瀬島にある標高470mの山をムグリスクという。国土地理院発行の地形図を見る限り、標高470mの山は根上岳しかないので、これのことであろう。名前のどこで区切れるのか不明だが、スクという名前が付いているので、参考までに紹介する。一先ず、グスクとしては扱いません。 | ||
城マ前 | 城之前 | 小宝島 | × | 「十島村誌」の十島村の字名を見ると、名前が見える(ちなみに、同誌の別項目では城之前と書いてある場合もある)。字読みは不明であり、下野敏見等の研究者がグスク地名として発表していないことからすると、グスクとは関係なさそうである。前掲書によると、城跡だという。字名総絵図を見ると、島の北東部を指すようで、少なくとも現在の集落がある場所ではなさそうである。グスクとしては扱いませんが、参考までに掲載します。 | ||
城山 | 宝島 | × | 「十島村誌」の十島村の字名を見ると、名前が見える。同誌の字名総絵図を見ると、荒木崎周辺を指すようだ。平家の砦跡があるので、それに因んだ地名であろう。グスクとしては扱いませんが、参考までに掲載します。 | |||
屋久島町(グスク数2) | ||||||
クスク | × | 「奄美・吐喝喇の伝統文化」によると、クスクという岬があるという。 | ||||
クスクバエ | × | 上記文献によると、クスクバエという瀬があるという。海中地形なので、他のグスクと比較したら異質な気もするし、著書でもそのことは認めているが、グスク地名と思われるので、グスクとして当サイトでも扱います。 |